たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

「志賀島の金印発見劇」は徳川将軍家による演出だった説

なんかおかしいと思っても、古代の出来事の場合は真実にたどり着くのは至難の業です。

タイムマシンでもないと、調査の結果が真実かどうか確かめる術はなかったりします。

でも調べてみるのと調べないのでは、大違いなんですよね。何でもそう。

定説が存在していても、調べてみると誰も知らない事実が、ぼわ~っと見えて、今までの定説っておかしくない?となれば革命の一歩。

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志賀島の金印

 

漢委奴國王印志賀島から出土した、1世紀の歴史上の遺物であり、いまは国宝になっているそうです。

この金印については、1世紀の情報が詰まった「後漢書」の、以下の文とも整合していました。

後漢書』の記述との対応

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬

建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」

漢委奴国王印 『後漢書』の記述との対応 - Wikipedia

 

志賀島の出土地と、金印が見つかった経緯は、ウィキペディアで以下のようにあります。

出土地

1914年(大正3年)、九州帝国大学中山平次郎が現地踏査と福岡藩主黒田家の古記録及び各種の資料から、その出土地点を筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)と推定した。その推定地点には1923年(大正12年)3月、武谷水城撰による「漢委奴國王金印発光之処」記念碑が建立された。その後、1958年(昭和33年)と1959年(昭和34年)の2回にわたり、森貞次郎、乙益重隆、渡辺正気らによって志賀島全土の学術調査が行われ、金印出土地点は、中山の推定地点よりも北方の、叶ノ浜が適しているとの見解が提出された[3]。

1973年(昭和48年)及び1974年(昭和49年)にも福岡市教育委員会九州大学による金印出土推定地の発掘調査が行われ、現在は出土地付近は「金印公園」として整備されている。


発見の状態について

江戸時代天明年間(天明4年2月23日(1784年4月12日)とする説がある)、水田の耕作中に甚兵衛という地元の百姓が偶然発見したとされる。発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説もある。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。すなわち金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に隠されていた。発見された金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥は『後漢書』に記述のある金印とはこれのことであると同定したという。

なお、糸島市の細石神社には、「漢委奴國王」の金印が宝物として伝わっていたが江戸時代に外部に流出したとの伝承(口伝)がある。

 

その他

前略

三浦佑之は著書『金印偽造事件―「漢委奴國王」のまぼろし』において、
発見時の記録にあいまいな点が多いこと
江戸時代の技術なら十分贋作が作れること
滇王之印に比べると稚拙

などの点を根拠に亀井南冥らによる偽造説を唱えた[29]。

 

漢委奴国王印 - Wikipedia

志賀島の金印、すごいですね、志賀島に埋まってたんですね。

めでたしめでたし。でも別に良いんですが。

 

志賀島で金印が出たというけど、これってなんかおかしくないですか?って思ってる人は、過去にもいたようです。

出土地については、これまで漠然と志賀島だと思っていましたが、志賀島といっても意外と広く、南北に3.3キロ、東西に2.4キロほどもある島なんです。

 

上にある記述を元にして、志賀島の金印推定出土地を地図に示してみました。

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 1914年(大正3年)から1974年(昭和49年)にかけて、都合3回も出土地点が移動していたんですね。

叶ノ浜については、グーグルマップで検索すると志賀島の南西が表示されたので、ウィキペディアの記述と合っていません。地図ではグーグルの表示に従って表示。

 

発見地点が3カ所も移動してるということは、発見場所の特定には困難を極めた様子。

江戸時代の1784年、甚兵衛、秀治、喜平という3名の人物が水田耕作中に金印を見つけた巨石の場所は、はっきりせず漠然とした情報しか残って無かったらしいです。

要するに現在の金印公園の場所も、ほんとうの金印発見地点じゃないかもしれないんですが。まあ分かんないし、このへんでいいや、みたいな・・・。

 

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志賀島の金印にまつわる陰謀

 

まぁそれはともかく、なんで金印は、歴史上ではそれほど重要拠点もなかった志賀島にあったのかは、気になりますね。

一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。すなわち金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に隠されていた。

 

それに、金印を志賀島の巨石の下に仕込んだのは誰なのかということも。

A・1世紀を含む弥生時代、奴国王印を受け継いだ何者かが、志賀島の巨石の下に隠したのか

B・甚兵衛を利用し、金印が志賀島から発見されたように見せかけた、謎の人物がいたのか

 

関連して、こんな本があったとか。

あの国宝「志賀島金印」発見は、大芝居だった?
著 明石散人
講談社講談社文庫 [歴史ミステリー] 国内

果たして、国宝金印は本当に志賀島から出土した物なのか

天明四年当時、全国の大名達は硬直した藩政に対し、立て直しの優秀な人材を要職に抜擢するために続々と藩校を開校させていた。しかし、福岡藩では三代にわたる城主の夭折に見舞われ、推進役の相次ぐ不幸に藩校の開設は頓挫。熊本藩より遅れること三年目にしてようやく開校に漕ぎつける。
だが、この時期に儒学者亀井南冥は、既にある藩校を差し置いて明らかに異例な第二の藩校の開校を主張していた。結果は福岡藩四人の重臣の意見は真っ二つに割れ、苦肉の策として二つの藩校が認可、南冥は破格の大抜擢を受ける事になったという。
こうして、藩儒筆頭三百石の名門出の竹田定良が率いる「修猷館(しゅうゆうかん)」と、かたや十五人扶持儒医の亀井南冥の「甘棠館(かんとうかん)」というライバル校の並立が始まった。そして、お坊ちゃんと叩き上げという二つの藩校の館長は、開校当時から学問以外でも悉くいがみ合うのだ。
当然ながら主流の修猷館の方が規模も大きく正統性を主張。また現実には門下生の勢力も修猷館が六百人余りで勝り、甘棠館はその三分の一程度であった。

果たして、劣勢の甘棠館でも後には退けない亀井南冥が勝てる機会はあるか?

福岡藩における奇異な二つの藩校の同時開校。志賀島の金印は、実にこの両校が開校した天明四年の二月、まさにその月に合わせた様な発見だった。
志賀島百姓「甚兵衛口上書」から端を発した島内の叶の崎から出土したという金印。第一発見者の甚兵衛が実在不明であることや発見場所の特定と出土年月日の記載がない鑑定書など、不可思議な事実が浮かび上がってくる。
また発見に関わった人物像も、甚兵衛の後見役の庄屋から郡奉行に至る七人全てが、この亀井南冥と繋がっているという奇妙な関係。
この金印発見劇の以前より、南冥が自身の専門領域で修猷館竹田定良に対する古文辞学の論争を仕掛けるための下工作だったのか。ライバル学者同士の功名争いが絡む金印にまつわる騒動は、印章研究家の第一人者藤原貞幹や文人上田秋成と大田蜀山人国学者本居宣長をも巻き込んだ一大事件となる。
福岡・江戸間は三千里余り、この時代の距離と時間をして異常に早い情報伝達と自説を有利に運ばせる論文のリーク。江戸・大坂・京都在住の学者達にまたがる南冥の周到な根回しと画策はあったのだろうか。文献を基に次々と明るみに出る綿密な考証は、実に知的なミステリーとして舌を巻く展開となっているのである。

【書評】明石散人:七つの金印―日本史アンダーワールド【ブックレビューサイト・ブックジャパン】

これはこれで面白い展開ですが、真相は別の所にあったかもしれないんですね。

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糸島市の細石(さざれいし)神社

 

志賀島から南方へ15キロ離れた糸島市に、金印が志賀島から発見された真相のヒントがありそうです。

なぜかというと。

なお、糸島市の細石神社には、「漢委奴國王」の金印が宝物として伝わっていたが江戸時代に外部に流出したとの伝承(口伝)がある。

ウィキペディアより

こんな伝承があったとか。

 

そうすると、やはり甚兵衛という人物がなんか怪しい感じがしますね。何らかの理由で細石神社の金印を手にしてしまった甚兵衛が、金印の処遇に困って巨石の下から発見したことにしたみたいな。

志賀島で巨石の場所すらも明確でないのも、「巨石自体が存在していなかった」ことが影響していそうですが。

 

細石神社

細石神社(さざれいしじんじゃ)は、福岡県糸島市にある神社。古くは「佐々禮石神社」と表記されていた。祭神は磐長姫と木花開耶姫の姉妹二柱。旧社格は村社。

細石神社 - Wikipedia

この神社、弥生時代の伊都国の中心地に位置したと考えられているのですよね。

つまり奴国が受けた金印は、後に伊都国が所有するところとなり、そのまま細石神社が保管してきたという流れが考えられました。

細石神社は「佐々禮石」と書くわけなのですが、これは日本国国家の君が代で、

君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」

とある、「さざれ石」と同じ名称ですね。

あるいはこの神社の場合、長らく保管した金印のことを、さざれ石と隠語で呼んでいたことは、あるかもしれない、そう考えることもできるのですよ。

 

佐々禮石

この漢字を使ってるのは意味深ですね。

・・・金印は西方の漢の洛陽から来た。西というのは方位に照らせば左

・・・これは祭礼のお供え物


字源
会意形声。、「示」+音符「豊(「豐」の略体ではなく、元来からの文字)」。「豊」は「豆(たかつき)」に形よく供え物をならべた様。形よく整えられた祭礼を意味。

禮 - ウィクショナリー日本語版

 

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金印と君が代と徳川家との関係

 

おそらくこの「志賀島金印発見事案」には、大きな権力が絡んでいると見て間違いないと思うのです。

その理由は意外なことに「君が代」から見つけることができるのですよ。

和歌としての君が代

 テキストと作者

作者は文徳天皇の第一皇子惟喬親王に仕えていたとある木地師で、当時は位が低かったために詠み人知らずとして扱われるが、この詞が朝廷に認められたことから、詞の着想元となったさざれ石にちなみ「藤原朝臣石位左衛門」の名を賜ることとなる。[要出典]

歌詞の出典はしばしば『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題しらず、読人しらず、国歌大観番号343番)とされるが古今集のテキストにおいては初句を「わが君は」とし、現在採用されているかたちとの完全な一致は見られない。


我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

君が代 - Wikipedia

 

結果的に君が代の作詞家として、21世紀の今も存在感を見せていると言えるのが、9世紀に皇族に仕えた木地師の、藤原朝臣石位左衛門という人でした。

 

ここで金印が発見された年代に注目。

 

 江戸時代 天明年間(天明4年2月23日(1784年4月12日)

天明

天明(てんめい)は日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇光格天皇江戸幕府将軍は徳川家治徳川家斉

徳川家治(いえはる)・徳川家斉(いえなり)という征夷大将軍が日本のトップにいて、この当時の天皇光格天皇でした。

金印が見つかった時代に日本を統治したこの人たちのことは、まあ何も知らなかったのですが、調べていると何だか変なことに気づいてしまいました。

 

昔の人は後の本名と幼い頃の名(幼名)が違っているのが普通でした。

徳川将軍の場合、 

徳川家治の幼名・・・竹千代

徳川家斉の幼名・・・豊千代

 

徳川家の跡取りの幼名は、千代が付いている場合が多かったようです。初代江戸幕府将軍の家康から、秀忠、家光、家綱までみんな竹千代だったし。

 

あれ?なんか、さっき見ませんでしたかこの名前。

そうそう、糸島市の、細石(さざれいし)神社で、見かけました。

 

・さざれ石・・・千代にやちよにさざれ石の・・・千代

 

これに加えて、登場してきたあらゆる情報が、何故か偶然にリンクしていることがわかってきました。

・竹・・・さざ=笹=竹

・豊・・・佐々禮石の禮=示+豊

・治・・・発見者の1人=秀治・・・家治の治

・いと・・・甚兵衛の甚は「いと」と読み、細石神社があるのは元伊都国

・なり・・・徳川家斉の「斉(なり)」と関係者の喜平の「「平(なら)」

・甚平・・・甚兵衛とは甚平と同じだが、甚平は元は武家の衣服の陣羽織が起源

 

まとめるとこうなる。

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これは偶然こうなったというか、・・・計算ずくな気がするのですが?

 

さらにもう一度、志賀島の金印発見情況を見てみる。

甚兵衛の供述

一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。すなわち金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に隠されていた。

ウィキペディアより

 これを図案化するとこうなるのだが、

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ドラえもんの絵描き歌みたいに描いてみたら、なんか徳川家の家紋になってしまった・・・。

 

三つ葉葵 - Wikipediaを使用。

 

 志賀島からの金印発見には徳川将軍家が大きく関係しているんじゃないかって、そんな想像を膨ませてしまう、理由がわかりましたね。

 

徳川将軍家が、漢委奴國王の金印を表に出すために、甚兵衛らを使って一芝居打った、というわけなのかわかりませんが。

言葉の語呂合わせ、家紋風の発見状況などを利用して、真犯人は徳川家ですよ!と徳川将軍様は遊び心いっぱいに匂わせていたのですが、今まで誰も気づかなかったようです。

 

そもそも将軍が金印を日本じゅうに大公開する目的があったとしても、こんな回りくどい発見劇にした理由とは何だったのか。

将軍系の幼名と細石神社の名前など、いろいろ掛け合わせてあるということは、昔から徳川将軍家は金印のことを把握して、家宝として重視してきたことの表れかもしれません。

 

しかし情報が少ないので、これ以上のことは想像できません。

 

 

そういえば、 

志賀島(しかのしま)

然り(しかり)

〔「しかあり」の転〕
そうである。そのようである。そのとおりである。

金印が志賀島で見つかることもまた然り。運命であったということで、志賀島が金印発見劇の舞台に選ばれたんだろうか。

  

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後漢書の倭人帥升は徐福の子孫でもおかしくなかった

なんかおかしな出来事に満ちているので、そのことを書こうかと思っていたら、帥升のほうが気になりだしたのでお先に帥升

 

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外国の歴史書で、最初の名のある倭人は一体誰だったかというと。

後漢書」の2世紀初頭の頃の記録に、倭国王帥升(すいしょう)」の名前が出て来るのが最初。

後漢書倭伝

安帝の永初元年(107年)、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。

「中国正史日本伝(1)」石原道博編訳

 卑弥呼帥升の後の時代に登場します。

帥升がいた西暦107年は今から1900年以上前ですが、歴史の通説ではこの2世紀の頃にも、天皇家の先祖が日本列島を支配していたことになってます。

 

帥升はたった2字で、これだけの情報量しかないのですが、たった2字でもあれば想像を膨らませるには十分でした。

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発音と字義

「学研漢和大字典」によれば、秦代の上古音でも、日本の呉音の「スイショウ」に近いみたいでした。

帥 

意味 ①軍を率いる大将、②最高の指導者、かしら、ひきいる

解字 𠂤(タイ)は堆積物や集団をあらわし、ここでは隊の意。巾は布の旗印をあらわす。

古訓 イクサ、ヒキヰル、アツマル、イクサキミ、イクサタチ、ニハカニ

 

意味 ①升目の単位、②ます、③のぼる

解字 「ます+手」の会意文字で、穀物や液体をますに入れて持ち上げ、はかるさまを示す。

古訓 アカル、アク、イツ、スエ、ススム、ノホル、ヒロフ、ヨシ

 

以上「学研漢和大字典」より

これだけみると、帥升というのは 「大将の升さん」みたいな感じだったかもしれないなと思ったり。

あるいは倭では「イクサキミのススムさん」みたいに言われて大和言葉の名称だったものを、漢字に直訳して帥升になったのかもしれないなと。

 

これに加えて、元帥の「帥」にそっくりな漢字で、師匠の「師」のほうも気になりました。つくりの上方に横棒がついてるかついてないかだけの違いなんですけど。

これはウィクショナリーで調べてみると、


字源
会意。「𠂤(タイ)」+「帀」。「𠂤」は積み重ねること、「帀」はあまねく行動することで、多くの人を集めた集団、また、それを率いる人(藤堂)。「𠂤」は生贄の肉、「帀」はそれをさばく刀で、戦争に際して、先勝を願う祭祀を行なうこと及びその祭祀を行なう人(白川)。

師 - ウィクショナリー日本語版

祭祀で生贄を刀でさばくとか・・・かなり意味合いが変わってくるようでした。

帥、師、どちらにしても左側の𠂤編は生贄という意味がありました。

後漢書倭伝で、「安帝の永初元年(107年)、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う」とありましたが。

 

 生口というのは、解釈としては奴隷のことだというのが通説で、漢の安帝に対して倭人の奴隷を160人、プレゼントしたということが書いてあります。

  倭人はまちがいなく生贄や奴隷を用いた人々だったんではないかと。

 

帥升には生贄の文字が入っているわけですが、実は贄は天子のみに許された文字であったらしいです。

これは崇神天皇の和風諡号「みまきいりひこいにえ」でも最後に「贄」が入っているのが見えますが、自らを神の元に近い贄とした思想が見えますね。

 

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四角形

 

升は「ます」と読むので、日本人はお酒の枡を思い浮かべるしかないですね。


升(しょう)とは、尺貫法における体積(容積)の基準となる単位である。10合(ごう)が1升、10升が1斗(と)となる。その量は時代や地域により異なる。日本では、メートル法採用後の1891年(明治24年)に、立方メートル(立米、m3)を基準にして1升を 2401/1 331 000 立方メートルと定めた(後述)。これは、約 1.803 906 837 リットル (L) に当たる。

 

升は元々は両手で掬った量に由来する身体尺であった。当時の升は 200 ミリリットル程度、現在の升の10分の1程度であった。それが時代とともに大きくなっていき、現在は元々の量の10倍程度になっている。

「升」という文字は柄杓の中に物を入れた形をかたどったものである。そこから量を量る「ます」の意味、およびそれによって量られる容積の単位を意味するようになった(これとは別に、柄杓で物を掬い上げることから「のぼる」の意味もある)。後に容器の方は「升」に木篇をつけて「枡」と書き分けるようになったが、実際にはあまり区別されていなかったようである。上述のように、1升という量があってそれを量る枡が作られたのではなく、先に物を量る枡が定められ、その量が「升」と定められた。

升 - Wikipedia

 

これは四角形、立方体を意味する漢字です。

すると歴史上でも四角形や立方体を表す、神が住むモニュメントみたいなものがあったと気づくのですよね。

それは方丈。

 

方丈 - Wikipedia

方丈

方丈(ほうじょう)は、
1.  1丈四方の面積を指す。またその広さの部屋や建物の事で、「方」には四角形の意味(例:方墳、正方形など)が在り、「丈」の長さをもつ「方」ということ(本項目で記す)。
2. 古代中国において、仙人が住む島とされた東方三神山(蓬萊・瀛州)の一つで、神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる。方壷(ほうこ)とも呼ばれる[1]。


大きさ

1丈は、10尺であるので、1方丈は、約3.030m 四方ということになる。その面積は、100平方尺であり、約9.1827 m2である[注釈 1]。

京間(6尺3寸×3尺1寸5分 = 約1.9091 m ×約0.9545 m )の四畳半の一辺は、約2.8636 m であり、その面積は約8.2004 m2 であるから、1方丈は京間の四畳半の1.12倍程度の広さである。     

建物

方丈は簡単に構築でき、また簡単に解体する事ができたため、僧侶や隠遁者に愛用された。鴨長明の『方丈記』は、方丈の庵で書かれたことによる題名である。

また『維摩経』に書かれているように、維摩詰の方丈を訪れた文殊菩薩とその一行がその狭い空間に全員収ることができたという逸話から、仏教においては方丈に全宇宙が内在しているという考え方が生まれ、そこから寺院の住職が生活する建物を特に方丈と呼ぶようになった。室町時代中期以降は仏像や祖師像が安置されるようになり、本堂の役割を担う建物となった。今日の日本の曹洞宗においては住職本人のことも方丈と呼ぶ慣わしがある。

方丈 - Wikipedia

現代の学者は、宇宙は自然と楕円形に近いかたちになったと認識していますよね。

ところがむかしの仏教徒は、「宇宙が四角い」と認識していたんですよね。知的生命の手が加わらなければ不可能な四角い形状、それが宇宙であると考えていたなんて、なんか意味深ですね。

 

帥升という人が、四角形や立方体を象徴する漢字「升」を使っている のは、中国人からみても、数字の単位、四角形の家など、規則的で知的な要素が垣間見える人物だったからに他ならないと思われます。

これは秦の徐福の存在を思わせるには十分な感じ。なぜかというと徐福はあらゆる知識を詰め込んだ生き字引、歩く百科事典みたいな人だったからですよ。

 

以前の記事。

神武天皇が派遣した天富命、始皇帝の下から旅立った徐福は奇妙な一致を見せる

方士というのは、 

 

方士

中国古代の方術を行なった人。方術とは,卜筮,医術,錬金術などをさす。『史記』の「封禅書」と「秦始皇紀」に初めてその名がみえる。戦国時代の後期から燕や斉の地方を中心に不老不死の仙薬について説いた人で,その説を秦の始皇帝漢の武帝も信仰した。この呼称は三国時代まで使われ,晋代に入っておもに「道士」といわれるようになった。

方士(ほうし)とは - コトバンクより

 

集合知、物知り博士、生き字引、賢者みたいな存在が、まさに除福だったわけなんですよ。

 

と、書いていたように、徐福と帥升の間には、賢者としての共通点がよく見えてきてしまいましたから。

 

それに徐福と帥升の字を見比べると、両者は意外な共通点で繋がっていました。

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とっくりとマス

・お酒を入れる容器   徐福の「畐(とっくり)」

・お酒を飲む・測る容器 帥升の「升(ます)」

 

まあ弥生時代当時の升というのは、柄付でひしゃくの形をしてたものだから、上にある絵とは一致しないですが・・・。

 

徐福と天富命は共に「畐(とっくり)」でつながっていたのと同様に、徐福と帥升も「お酒繋がり」だったとか。

 

 徐福の血統と知識を受け継いだ、倭の権力者、帥升

こうして見ると、なんか帥升に対する見方も、違ってきてしまいました。

 

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1000年のキーワード

1000年に1度、1000年ぶり。

なんで増えたのかって、気になるのですが。

 

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2017年6月30日

ハザードマップ.洪水時の浸水予想 宇都宮市が改定版作成/ - 毎日新聞

見直しに当たっては、想定する降水量を100年に1度から1000年に1度の規模に引き上げ。

 

2017年6月24日

洪水浸水想定区域 見直し 淀川水系5河川、大規模豪雨に備え 伊賀広域 /三重- 毎日新聞

 

2017年6月23日

古文書から紐解く巨大地震発生Xデー 第1弾「南海トラフ」|ニフティニュース

明応地震の際に起きた津波は、“1000年に一度の震災(千年震災)”によって起きたとも言われているのです

 

2017年6月22日

国土交通省近畿地方整備局 大阪・京都

1000年に1度の大雨で大阪・淀川河口「18日間浸水」 :日本経済新聞

 

2017年6月15日

1000年目で初公開

若狭歴史博物館 十一面観音坐像 17日から初公開 /福井 - 毎日新聞

約1000年もの間、地域を見つめてきたすばらしい仏像を見てほしい

 

2017年6月14日

大連古代ハス 一瞬のはかなさ 松山市考古館で咲く /愛媛 -毎日新聞

中国・大連市で出土した約1000年前の種から育てた「大連古代ハス」が松山市南斎院町の市考古館の玄関前で花を咲かせ、

 

2017年6月14日

群馬県

1000年に1度の洪水 主要18河川で水害対策強化  : 上毛新聞ニュース

 

2017年6月11日

眞子さま 佳子さま 皇居ご訪問 fnn-news.com

代々の天皇をまつる皇霊殿では、1,000年前のこの日亡くなった三條天皇の千年式年祭が行われ、天皇陛下が儀式に臨まれたほか、皇太子さまや秋篠宮ご夫妻、眞子さま、佳子さまなど皇族方が参列された。

 

2017年6月8日

宮城県

浸水区域見直し 想定は「1000年に一度」 | 河北新報オンラインニュース

 

 2017年6月6日

百鬼夜行の大群を率いて戦え!毎日10連ガチャができる古今東西の妖怪によるタワーディフェンスRPG『妖怪大合戦』 | andronavi(アンドロナビ) - アンドロイドの日本最大級アプリ紹介サイト

総大将を決めるため、1000年に一度の大合戦をするそうな。妖怪っぽいね。

 

2017年6月5日

1000年の眠りから覚めた!隋唐時代の寺が成都の繁華街に出現―中国 - エキサイトニュース

 

2017年5月28日

<千年希望の丘>津波よけ3万本最後の大植樹 | 河北新報オンラインニュース

2013年に始まり5回目で、大規模な植樹活動は今回で最後となる。

 

2017年5月10日

富士山 同時噴火の痕跡 1000年前、最低2カ所で 溶岩の磁気データ一致- 毎日新聞

 

2017年4月18日

『トランスフォーマー/最後の騎士王』新予告映像公開 1000年に及ぶ歴史が明らかに|ニュース|映画情報のぴあ映画生活(1ページ)

冒頭では、トランスフォーマーと人間の繋がりが1000年以上前から始まり、独立戦争ナポレオン戦争第一次世界大戦などの歴史のターニングポイントにトランスフォーマーが深く関わっていたことが判明するなど、シリーズ最大の謎が描かれている。

 

2017年3月9日

植樹会 どんぐり1000年の森をつくる会、育苗…活動の株主募集宮崎市で19日 /宮崎 - 毎日新聞

 

2017年3月3日

新作ゲーム紹介:「ホライゾン ゼロ ドーン」 1000年後の地球が舞台 機械の獣を狩る - MANTANWEB(まんたんウェブ)

ゲームの舞台は文明が崩壊してから1000年後の地球で、人類は狩猟採集時代に逆戻りしているという設定だ。

 

2017年3月2日

地球で1000年ぶりの「大地変動の時代」がはじまった!(鎌田 浩毅) | 現代ビジネス | 講談社(1/2)

 

2017年2月20日

文明崩壊から1000年の時の流れ──『Horizon Zero Dawn』最新映像「タイムラプス映像(千年の軌跡)」公開! | PlayStation.Blog

本作の舞台は、大災厄によって人類文明が闇に包まれてから1000年後、人類に代わって機械の獣たちが大地を支配する世界。

 

 2017年2月8日

1000年の歴史ある塔が観光客の落書きだらけに、鉄柵で覆うも... - Record China

浙江省杭州市の安楽山は山頂に「安楽塔」という1000年以上前に建てられた塔があることから、地元では「宝塔山」と呼ばれ親しまれている。しかし、観光客の落書きがひどく、

 

2017年1月18日

千年動いたイラン伝統の風車、存続の危機に | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

 

2017年1月10日

米カリフォルニア州、車が下を通れる「トンネルツリー」が暴風雨で倒壊 樹齢は1000年超とも - ねとらぼ

 

2016年8月5日

「ベルセルク無双」、ストーリー「千年帝国の鷹篇」を公開 - GAME Watch

 

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これって何?と考えると、 千年王国

 

千年王国
千年王国(せんねんおうこく、英語:Millenarianism、あるいはMillenarism)は、キリスト教終末論の一つ。千年王国説を信じる者は、英語で「millenarian」や「millenary」と呼称されている。

終末の日が近づき、キリストが直接地上を支配する千年王国(至福千年期)が間近になったと説く。千年王国に入るための条件である「悔い改め」を強調する。また、至福の1000年間の終わりには、サタンとの最終戦争を経て最後の審判が待っているとされる。千年王国に直接言及する聖書の箇所は、ヨハネの黙示録20章4節から7節。

千年王国 - Wikipedia

 

現実のものとなるから、飽くこと無く、1000年をリアルに反映させているのやら?

 

f:id:kl117cr233:20170708232640j:plain

最後の審判 - Wikipedia

 

 

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(動画)高原の森林に自衛隊演習場と飛行機の爆音が響くと、近隣の爺婆が俺のせいにしてぶっ叩かれる日々

 

(2022年3月の追記。最新のわたすの研究結果によりますと、航空機レーダーから衝撃波を地面に当てることにより、爆音が発生するようです。詳しくは2021年以降の記事をどうぞ)

例の爆音が飛んでくる件(Mysterious Booms)について世界の出来事絡めてまとめ直し 

どーん!どーん!どーん!

近隣でこんな音が聞こえる日常を送ってる方は必見。

 

 

 

次の映像はイヤホンじゃないと聞きづらい。

 

とある静岡の高原の森林では、よくこんな騒音が聞こえます。

 

自衛隊東富士演習場の演習のドーンという爆音とか。自衛隊東富士演習場の爆音が届く(市役所の話)

・ジェット旅客機のゴーゴーいう風の音、下水管を流れる水みたいな音。飛行機によるドーンとかいう爆音は深夜でも。上空が飛行機の航空路になってて飛行機の爆音が鳴るわけですが。

・遠くから伝わってくるトン、トン、トン、トンという変な音(おそらく遠くの飛行機が響かせている上空の衝撃の波)、

・お隣さんの猫がうちの床下でガチャガチャやってる音。

 

が聞こえると、隣はドン、ドン、ガン、ガン壁やらなにやら、深夜も早朝もぶっ叩く場合があるのですよね。爺さん婆さん一家が騒音を俺のせいにして、ぶっ叩き出してるようなのですが。

それに加えて近隣で、雨戸パーン!鉄パイプガチャーン、大音量のはくしょんおじさんとか、でかい音コレクションが始まったりしたんだけど。なにこれ、アレか。

 

俺じゃないのに俺のせい。

 

この高原特有の騒音が原因なのに、私のせいにしてるようなのですが、どうすればよいでしょうか。

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そんなお隣に「この森の騒音はなんですか?」と聞いてみれば、

「富士山の演習の音です」とか、昔からこの音はあるみたいなこと言って、はっきり原因となる騒音源を認識してた。え?俺をぶっ叩きたいだけ?

 

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この地域では以前から知られた現象どーん

 

ネットでこの地域の爆音についてないかと調べたら、ありました。

 

mixi 2007年

******さん
2007年11月16日 08:33

東部に住んでる方なら誰か知ってるかも……
と思い、トピ立たせていただきます。

私は函南に住んでます。
昔からなんですが、朝とか昼間に家が振動するような、
「ドン!」という音が1時間ほど続く時があります。
この音の正体はなんなのでしょうか?
幼い頃は、雷だとか自衛隊の演習だとか聞きました。
最近毎日音を聞きます。
どなたか正体をご存知でしたら教えて下さい。


11月16日 08:42

自分は伊豆の国が実家で、今でもちょくちょく帰っていますが、
その音は中学くらいからずっと気になっていました。

自分も回りに聞いてみると、御殿場にある基地の演習との事でした。
確かに気になりますよね^^;

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=546923&id=25126779

 

ヤフー知恵袋 2011年

静岡県富士市、冨士宮、裾野、御殿場、沼津で今日地鳴りのような音がすごいです。

*****さん
2011/5/2420:14:57

静岡県富士市、冨士宮、裾野、御殿場、沼津で今日地鳴りのような音がすごいです。
 自衛隊かな? とおもったのですが今日はやってないとかという情報もあり…ほかに考えられるのは火山とかでしょうか?朝からすごい鳴ってます
補足
家の中にいればわかりませんが外にでてればわかります

 

*****さん
2011/5/2508:10:06
私も気になっていました。
 昨日は遠くで雷?とも思いましたが、午後晴れても鳴っているし、自衛隊?にしても、夕方6時過ぎてもなっているし・・・。
 今も聞こえています。ドーン、ドーンと・・・。
 気になりだすと余計ですよね。
 何の音なのかわかれば安心なのですが・・・。
 
*****さん
2011/5/2523:39:22
しばらく前から聞こえています。
 飛行機が上空を通過するときのような音ですよね?
 昼間はわかりませんが、夜中はずっと聞こえています。

ちなみに私の住まいは富士市の南部です。
 音は南の方から聞こえます。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1463003034

 

地震前兆掲示板 2013年

地鳴り?

2013年01月30日21:52
静岡の伊豆の国市〜ですが、先程から引きずる様な音なんだか、雷みたいな音なんだか…
ゴロロロロ…と鳴っています。
 雷かと思い少し外に出てみましたが、風も無いし、空も星空で綺麗…
自衛隊演習→こんな時間に?ですかね…?

 

2013年01月31日07:09
こちらは静岡県三島市
 一日中そのような音が発生してます。
 何処からかが不明です。

 

2013年01月31日11:25
西熱海ゴルフ場近くですが
北側から地鳴りのようなどーんという音と
窓が少し空振で揺れます。
 昨夜と今朝も。
 北側というと御殿場方向です。

 

2013年01月31日10:30
伊豆市です、やっぱ鳴ってますよね!?
ずしーんずしーんと響いてます。
 何なんなでしょう 怖いです。

 

2013年01月31日10:52
30日夜から確かにずっと聞こえてますね。
 情報をまとめると伊豆市〜沼津〜熱海で聞こえる。
 富士宮では聞こえない。

 御殿場の方などではどうなのでしょう?

東海地震の予測震源域は県西部なので多分違うとは思うのですが。
 予測があたるとも限らないですしね。

ちょっと大雑把ですが・・・地図に書いてみました。
 赤丸が音の聞こえる範囲。
 青丸が東海地震の予想震源域です。

http://jisbbs.com/nodes/id1945.html

 

ヤフー知恵袋 2012

神奈川県西部(小田原付近)に在住しているんですが、雨も降っていないのに雷のよう...

******さん
2012/1/3021:55:28 

神奈川県西部(小田原付近)に在住しているんですが、雨も降っていないのに雷のような地響きが聞こえます。
 調べたところによると富士山付近に自衛隊の訓練場があるとのことでした。
しかし夜でも聞こえます。

これは本当に自衛隊の訓練の音なのでしょうか?
なんだか地震と関連してないか不安です…


******さん
2012/2/208:30:14

最近、地震が続いてますものね…
自分も神奈川西部ですが、毎日のように聞こえてくるので不安ばかりが募っています。
 今日も頻繁に鳴ってますね。

 先日伊豆の国市に行ったのですが、同じ音がもっと大きく聞こえました。
なので、厚木方面からの音とは考えにくいですよね。

 気にしすぎと笑われますが、非常袋を玄関に出してあります。
ゴーグルも買ってこようと思っています。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1280486252

 

伊豆の国市の別荘地に住む人のブログ 2010年

2010年8月29日 (日)
富士総合火力演習について

表記の演習が本日10:15~12:00の間、静岡県御殿場市東富士演習場(畑岡地区)に置いて実施されました。

我が家は伊豆の国市の山の中にありますが、開放部が富士山方向に向けて建っていることと標高の関係で射撃練習の際の音は遮るモノがないので相当の振動で伝わって来ます。

尤もこの演習に限らず、常にその騒音と振動は伝わって来ますが、今日は矢張り量的なモノの所為か一段と激しかったです。

我が家ですらこう言う状態なので近場の方で地理的な条件が合ったお宅はそれはそれは大変でしょう。

http://am-izu.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-878f.html

「この演習に限らず、常にその騒音と振動は伝わって来ますが、」とあるので、やはり以前から騒音が1年中ある地域なんじゃないかと。

他にも検索をすると、2009年にはすでに同様の書き込みが多数ありました。

これは静岡県東富士演習場が完成していた時代(明治時代)から、あるいは現在のジェット旅客機の航空路が静岡県上空に定まった1960年台以降から、すでに聞こえていたんではないかと。

 

神奈川県の自治体の公式見解どーん

神奈川県伊勢原市役所 よくある質問


断続的な地鳴りのような重低音について
公開日 2014年12月26日

 

市内において断続的な地鳴りのような重低音や微小な振動が感じられることがあります。

これらについては、自然現象によるもののほか、防衛省自衛隊東富士演習場等において行われる訓練に由来するものであると思われます。

地鳴りのような重低音や微振動が断続的に続くときは、同演習場等における訓練に由来するものである可能性があるため、冷静な対応をお願いいたします。

なお、東富士演習場静岡県御殿場市)において行われる「大きな音のする可能性のある訓練等の予定」については、防衛省自衛隊 富士学校のホームページ内演習場情報から御確認いただくことができます。

また、大山を含む丹沢山地は、約1,700万年前、太平洋の海底火山として誕生し、約100万年前の伊豆半島の衝突により隆起と侵食が起こり、その原形が作られたもので、活火山(概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山)ではありません。

http://www.city.isehara.kanagawa.jp/faq/2014122600015/

  

箱根山周辺というのは、自衛隊の爆音、飛行機の爆音、自然現象の爆音、いろいろなものが入り混じった騒音が届く地域、というのは自治体でも理解があり。

 

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でもどーんは、

飛行機が上空を通過するときの衝撃波が山にぶつかる音どーん

 これが原因としては、一因にあると思うのですよね。f:id:kl117cr233:20170702153929j:plain

FlightRadar24より

 

静岡県は航空路ですよ。

飛行機が通過するときに、衝撃波が山肌にあたって、どーんという音が出るんではないかという仮説ですが。

2011年の時点で、夜間や深夜にドーンと聞こえていることがあると書き込みありますし。飛行機の音だって言ってる人いましたし。↓

2011/5/2508:10:06
私も気になっていました。
 昨日は遠くで雷?とも思いましたが、午後晴れても鳴っているし、自衛隊?にしても、夕方6時過ぎてもなっているし・・・。
 今も聞こえています。ドーン、ドーンと・・・。
 気になりだすと余計ですよね。
 何の音なのかわかれば安心なのですが・・・。
 
*****さん
2011/5/2523:39:22
しばらく前から聞こえています。
 飛行機が上空を通過するときのような音ですよね?
 昼間はわかりませんが、夜中はずっと聞こえています。

ちなみに私の住まいは富士市の南部です。
 音は南の方から聞こえます。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1463003034

深夜のどーんや雷のような引きずる音・・・これは上空を頻繁に行き交う飛行機が原因。ジェット旅客機は、天候によって色んな音を出すようですね、とくに山に衝撃がぶつかり跳ね返るこの地域では。

専門家は知らないようなので、航空機による未知の現象ですね。

 

それの証拠映像が最初にアップした動画なんですけど、聞き取りにくい。

 

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これは昔からある音なのに。どーん

 

なんで近隣は過剰反応をし始めたのか。

なんで俺のせいにしてぶっ叩いたり、嫌がらせをするのか。

やっぱアレか、ミッションなのか。

 

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関連記事

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俺じゃないのに俺のせい -

山間部に響き渡るドーンという爆発音の正体はジェット旅客機のソニックブームなのか

近所の子供が十数年間も不快なほど叫び続けた相手はほとんど飛行機だった

 

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崇神天皇陵と投入堂の間に横たわる退っ引きならない秘密

近頃なにかと話題になっているのが、鳥取県投入堂

世界で異彩を放っている建物ランキングがあったら、上位に入ってくるんじゃないかと。

f:id:kl117cr233:20170626171808j:plain

投入堂 - Wikipedia

 

投入堂(なげいれどう)は、鳥取県三朝町にある三徳山三仏寺の奥院。山の断崖の窪みに建造された平安時代の懸造り(かけづくり)木製堂で、三仏寺の開祖とされる役小角蔵王権現などを祀った仏堂を法力で山に投げ入れたという言い伝えから「投入堂」と呼ばれる[1]。平安密教建築の数少ない遺構であり[1]、国宝に指定されている。

投入堂 - wikipedia

役小角(えんのおづぬ)が開祖だとのことで、この人は日本中を法力で飛び回ったという伝説の持ち主で、日本のあちこちの山を信仰の山に変えた張本人だとか。

 

似たタイプの断崖の穴の中の建築物としては、福岡東峰村の岩屋神社。断崖の穴の中にすっぽり入っていて、高床式なところも似てるんですよね。 

ほか、ただ断崖に造られているだけな感じで、佐賀県鹿島市祐徳稲荷神社京都市清水寺、千葉県館山の崖観音、千葉県長生郡の笠森寺みたいなのが有名所。

そういえばこの近所は、この家も含めて別荘の高床式タイプが多いです。

 

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最近の投入堂ニュース

 

投入堂は最近になり話題を提供していました。

 

2017年3月21日

三仏寺投入堂、地震で損なわれた参拝道の復興決定 わずか数日でクラウドファンディング成功 - ねとらぼ

 

2017年4月16日

絶壁の国宝「投入堂」への参道再開…鳥取地震で亀裂、ネット浄財で整備 鳥取・三朝

 

2017年6月18日

日本遺産・山陰の「物語」の世界へ鳥取編 大山牛馬市・癒しの三朝 | トラベルニュースat「今すぐにでも出たくなる旅」山陰鳥取特集

 

 どうやら昨年2016年に鳥取で起きた鳥取県中部地震の影響で、投入堂も倒壊危機だったところ、今年春になり修復が完了したとか。

・・・・・・そういえば俺がこの高床式の家を購入、リフォームして、移り住んだ時期と妙に重なってるのは気のせいですか。

2016年10月21日 鳥取県中部地震投入堂の参道破損で参拝が禁止に

2016年10月   埼玉でいまの静岡の家(高床式)に興味を持つ

2017年12月   静岡の家を購入、リフォームも決定

2017年4月15日 静岡の家のリフォーム完成

2017年4月18日 投入堂の新しい参道が完成、参拝再開

2017年4月20日 静岡の家に移住

まあ気のせいですよね。役小角(えんのおづぬ)とか・・・。

あ、最近噴火して地震も発生してる御嶽山も、役小角が702年に開山したのだとか。

御嶽山 - Wikipedia

 

御嶽山といえば国常立命を祀っている山で、御嶽山の山頂にあった白川大神の石像の首が吹っ飛んだことで話題になってました。

そういえば、御嶽山って、5,000年前に噴火をして以降は長らく休止していたのに、俺が生まれた後に噴火してるんですね。

1977年1月 俺が生まれてすいません

1979年10月 御嶽山5,000年ぶり大規模噴火してすいません

2014年9月 大規模噴火で白川大神の首が飛んですいません

2017年6月 俺が最大級にイラついたら御嶽山ふもとの王滝村で震度5強

・・・投入堂の話に戻ります。

そんな俺と関連づいているみたいな気がするだけの投入堂ですが、やっぱり関連づいてました。

 

崇神天皇投入堂の関係

 

前方後円墳の中心軸の前後に、被葬者の名前に関係する遺跡があるというレイラインの仕組みに気づいたのが2010年頃だったかと思います。個人的に前方後円墳矢印説といってブログに発表していました。

ところが1980年代にすでに「前方向法則」という名で歴史作家の井上赳夫氏が発表をしていたと教えられました。この井上氏の仮説は、現在では全く相手にされないもので、死仮説となっていたのですが、なんとなく思いつきで調べているうちに井上氏と同じところに到達していたのでした。

崇神天皇関係の本を書いたのが2012年のことです。その後色々研究をして、また 出版しようとしたら上手く行かず。でまさかの両親とも揃って他界するという展開により、ますます続編は遠くなり、今日に至りますが研究はしていました。

 

崇神天皇陵と投入堂の関係については最近になり気づいたことです。

崇神天皇陵とはこんな形をしていて、中心軸は西北方面から南東方面に向かっています。

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このラインを び~っと引っ張っていくと、こんな感じになるのです。

f:id:kl117cr233:20170627193958j:plain

寸分も狂いなく、投入堂が建っているということでした。

何の関係があるの?って感じですが、この崇神天皇陵と投入堂がどんなふうに結びついているのか、互いの情報を比較すると見えてくるものがあります。

 

崇神天皇

諡号「御眞木入日子印恵命みまきいりひこいにえのみこと古事記

・御眞木=みまき=三真木

・入

・神(崇神天皇=漢風諡号

 

投入堂

・三朝町

三徳山三仏寺投入堂

・三輪氏(役小角)による開山

蔵王権現=三尊(釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩

・入 

・神(役小角諡号神変大菩薩

三徳山三仏寺投入堂は、三徳山という山の断崖に建てられています。 

要するに神の諡号を持つ役小角=三輪氏が建てた、蔵王権現三尊を祀る、三朝町の三徳山三仏寺投入堂の漢数字の「三」と「入」と「神」が、崇神天皇諡号に合致してくるんです。

 

さらに崇神天皇陵から西北へと伸びているライン、これはもう一つの意味合いを持っていました。

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崇神天皇陵からの延長線と、三徳山三仏寺に所属する複数の堂宇は、すべて平行する方角を意図して建てられていることが明らかだったのです。

これで投入堂を含む三仏が、崇神天皇陵に関係しているモニュメントである可能性が出てきたというワケです。

 

三仏寺の開山者は修験道の開祖である役小角で、この人は舒明天皇6年(634年)に大和国の生まれだそうです。一方の崇神天皇私見によれば卑弥呼そのものであるので、実在年代は2世紀末から3世紀半ばということです。もし崇神天皇卑弥呼じゃなくても崇神天皇は同じ頃にいたと思います。

崇神天皇陵は崇神天皇の死後100年が経過した4世紀の建造物ですが、役小角が大和でものごころ付いた頃には、見る機会があったでしょうね。

きっとこの崇神天皇陵の「前方向法則」については、秘密の叡智を保持する三輪氏・賀茂氏の系統である役小角も学んでいて、その方角に三徳山三仏寺を開山したということはありうる話です。

役小角の後の平安時代に建てられた投入堂も、そんな崇神天皇陵との関連を示すために、入の一時を取り入れて、投入堂命名したんではないかと。

あるいは投入堂役小角の頃、初期投入堂としてすでにあって、それは今は見る影もないというわけなの加茂しれないです。

 

まぁこれまでこんな真相があったのに知らなかった、投入堂の関係各位の皆様には、突然こんな無鉄砲をぶちまけて申し訳ないですが。

これも今後いつ完成するかわからない電子書籍に加えておきますね。

 

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<烏孫起源説>中国二十四史ではどうして倭だけ「倭人」と表記するのか

視線を感じて、ふと背後を見ると部屋に虫がいるみたいな、第六感の日常。

6月21日は豪雨。

今日は雨がスゴイなと思って、窓の外を見れば、ちょうど地面に何かモソモソと動く気配が。

今回はまさかのカニ・・・。

f:id:kl117cr233:20170621131318j:plain

キャッチして撮影。まるで歩く宝石みたいでかわいい。そしてリリース。

 

○いつも助かっております

 

 

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久しぶりに、天皇大和民族烏孫起源説で展開します。

 

三国志」は創作された物語のほうは漫画ではよく見てました。

一方で歴史書のほうの「三国志」、こちらは「魏志倭人伝」が含まれている、陳寿による書物のことです。

魏志倭人伝 - Wikipedia

日本人の歴史研究は、倭人伝ばっかりに囚われる傾向にあるとか。でもこれはあんまり良くない傾向で、何故かと言うと倭人シルクロード民族の吹き溜まり、ごった煮みたいなものだから。

 

魏志倭人伝」と言われるものは、正確には「三国志魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人条」というらしいのですが、ここには倭=日本だけじゃなく、多数の国と民族が紹介されています。

烏丸、鮮卑、夫餘、高句麗、東沃沮、挹婁、濊、韓、倭人

というふうに、3世紀頃の東アジア諸国・諸民族がいました。

 

原文をみると、なぜか倭だけ「人」がくっついて倭人になっているのですね。

鮮卑人、高句麗人、韓人というふうには表記しないのに、なんで倭だけ倭人なのかは疑問に思うしか無いことでした。

 

さらに「三国志」に含まれる西域の諸国を見ればこんな感じ。

西域南道鄯善国(構成国:且志国、小宛国、精絶国、楼蘭国)
于寘国(構成国:戎盧国、拘弥国、渠勒国、穴山国、皮山国)
西域北道高昌国
焉耆国(構成国:尉梨国、危須国、山王国)
亀茲国(構成国:姑墨国、温宿国、尉頭国)
疏勒国(構成国:楨中国、莎車国、竭石国、渠沙国、西夜国、依耐国、満犁国、億若国、榆令国、損毒国、休脩国、琴国)
ジュンガル盆地からイリ地方車師後部王(構成国:東且弥国、西且弥国、単桓国、畢陸国、蒲陸国、烏貪国)
烏孫
ソグディアナからインド康居国
大宛国
月氏国(構成国:罽賓国、大夏国、高附国、天竺国)
臨児国
車離国(礼惟特、沛隸王)
盤越国(漢越王)
西アジアからヨーロッパ安息国(構成国:羅国)
條支国
烏弋国(排特)
大秦国(犁靬)(構成国:澤散王領、驢分王領、且蘭王領、賢督王領、汜復王領、于羅王領)

 

さらに「後漢書」を見るとこんな感じ。

巻85 東夷列伝 夫餘・挹婁・高句驪・東沃沮・濊・三韓・倭
巻86 南蛮西南夷列伝 南蛮・巴郡南郡蛮・板楯蛮夷・西南夷西南夷夜郎・滇・哀牢・邛都・莋都・冉駹・白馬氐
巻87 西羌伝 羌無弋爰劒・滇良・東號子麻奴・湟中月氏
巻88 西域伝 拘彌・於窴・西夜・子合・德若・條支・安息・大秦・大月氏・高附・天竺・東離・栗弋・厳・奄蔡・莎車・疏勒・焉耆・蒲類・移支・東且彌・車師
巻89 南匈奴列伝 南匈奴
巻90 烏桓鮮卑列伝 烏桓鮮卑

 

中国の歴史書二十四史を調べてみると、やはり「魏志倭人伝」の「倭人」という

ふうに「人」をくっつけている国名は他にないですね。「倭人」は特殊であるみたいです。

 

倭人に「人」が付く理由は? 

 

極めて短絡的にいえば、中国人は倭人を人間扱いしたんじゃないかって想像は、出てくるんじゃないかと。

中国は古来より四方八方の異民族を蛮夷として害獣扱いし、人間として見なかったわけなのです。そんな中で、陳寿から見て、唯一人間として見られたのが、倭人だったと。

だからあえて、人を付けて目立つようにしたのかもしれないです。

そもそも「倭」という文字には人編が付いているので、「人委人」みたいに、人に人を重ねてより人間らしいことが強調されているかの如く。

陳寿が殊更に倭人に対する傾倒した思いを抱いていたと、これも考えられることです。実は陳寿が倭系の人物なのではないか、という疑惑はあったのです。

実際「魏志」の記録をよむと、倭人伝はすごく丁寧に、全国の地名と地方の首長と副長の名前を、一人ひとり取り上げていたりします。こういった倭人伝の傾向は、他の東夷の諸国では見られない特徴でもありました。

 

倭人烏孫との関係

 

陳寿は魏呉蜀という三国の西側にあった、西域と呼ばれる中央アジア地域のことも、東夷の倭人のことも、同様に見識を深めている人でした。

魏の国の都だった洛陽の皇帝の宮殿には、しばしば倭人朝貢しに訪れていたし、地理志編纂者の陳寿は、東西南北の蛮夷と接する機会もあり、実際倭へ赴いていなくても、洛陽で倭人から話を聞く機会はありました。だからこそ魏志倭人伝も完成させることができたのだと想像します。

だから陳寿は、東西の民族の違いを見分ける目を持っていたので、倭人のなかに西域人が入り込んでいれば、きっとそれも気づいたに違いないです。

 

そこで陳寿は気づいてしまったのではないですかね。

倭人の中に烏孫の王族と民が入り込んでいることに。

その証拠が、「倭人」なnおかもしれないのですよ。これも勝手な想像ですが。

倭人 wa-zin

烏孫 wu-zon

こんなふうな感じで、名称を烏孫に合わせているがために、倭に「人」をくっつけて発音を似せて、倭の正体の示唆を与えてみたのではないかと。

 

倭人伝に登場してくる人物には、難升米をはじめとして、中央アジアに関係するのではないかと見られる人物が多数出てきます。

 

塞曹掾士張政

魏の帯方郡の武官です。塞曹掾士(さいそうえんし)張政(ちょうせい)という人が、倭の担当をしていました。

塞というのは中央アジアのサカの中国表記なのですよ。

なんで倭人との対応に、サカ人担当者が当てられたのかは、従来の考えではまったく説明できないことです。この人は塞(サカ)の言語を駆使できたと思われます。

倭人にサカ人担当官が当てられたのは、それなりに意味があったと考えたほうがいいです。

 

・難升米

難升米はナンショウマイとかナシメというのですが、最近気づいたのですが、この人は烏孫の末裔でした。なぜかというと、烏孫の昆莫の父親の名が「難兜靡」というからなのです。

難升米 nan-sho-mai
難兜靡 nan -tou-mi

 

・都市牛利

トシギュウリ、トシゴリなんて読まれます。従来は倭人は変な名前を持ってたのだと言って、それでオシマイでした。でも中央アジアに関連付けて考えてみれば分かりまs。

これはタジグリと読みます。タジキスタンの都市、塔什庫爾干(タジュクルガン)のことです。タジクというのは中央アジアに、漢の時代からある地名でした

都-市-牛-利
塔-什-庫-爾(ru)

も~完全に一致。

 

・伊声耆

ここまで中央アジアが揃っているのだから、この人も中央アジア関係です。イセイキと読んで、お伊勢参りの伊勢行きなのかとおもいきや、これも烏孫でした。烏孫のあったキルギスには、この地域を代表する大きな湖「Issyk Kul」があるのですが、つまりこういうこと。

伊-声-耆
 i-ssy-k

 

魏志倭人伝に登場する倭人の出身は中央アジアだった  より

 

神武天皇綏靖天皇については。

(1)神武=昆莫、神=昆莫

 これは名前を比較すれば分かってくることですが。

昆莫 kun-mo(kuen-mo)

神武 kan-mu(神武をカンムと読んだ場合)

神  ka-mu(神武天皇諡号「神日本磐余彦(かむやまといわれびこ」)

 

 

第2代天皇綏靖天皇

諱(本名)は「日本書紀」によると「神渟名川耳」っていうのですよ。

古事記」では「神沼河耳」で、「かんぬなかわみみ」、「かむぬなかはみみ」。

 

この名前、烏孫の昆靡名(王名)にありました。

烏孫の3代目は「軍須靡(クンシュミ)」というんですが、名前比べてみたら、

神渟名 kan-jou-mei日本書紀

神沼  kan-sho古事記

軍須靡 kun-shu-mie(秦・漢時代の音)

神渟名をカンジョウメイと音読みした場合、なんでこんなに似てるんですかね。。

「渟」は音読でジョウ。

 

さらに軍須靡には別名があって、「岑陬(ジンゾー・またはジンス/ジンシュ)」っていうのですが、これも神渟名川耳の中にちゃんとありました。

神渟 jin-jou

神沼 jin-sho

岑陬 jin -zou(jin-su/jin-shu)

神渟でも神沼でも、岑陬と一致させることができるんです。こんな偶然は無いんじゃないかと。つまり必然なんじゃないかと。

 

日本の神武朝は「中央アジアの烏孫の昆莫王朝」と同一視できることのまとめ

 

こうした天皇大和民族と、烏孫の間に見られる明らかな一致については、膨大に見つけていきました。過去記事で取り上げていたので、それを見ればよく分かると思います。

 

最近の烏孫の関連記事はこちら

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第2代綏靖天皇と、烏孫の軍須靡の名が似すぎている件

 

だから中央アジアの西域と、東アジアの東夷を知り尽くした陳寿が、倭人という国名により烏孫が関連付けていたとして、不思議はないです。自分の中では。

 

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ヨハネの黙示録の四つの生き物と日本の四国は如何にして結びついたか

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Cherub - Wikipedia

 

毎日のようにアポカリティックサウンドを耳にしている、奇妙な世界の住人な俺。耳にするあらゆる雑音と悲鳴が、日常を終末の世界に変える。世界も終末のラッパが吹き荒れているかのよう。

お隣さんも迫りくる終末の音にやられてしまったのか、外からの騒音を俺のせいにして壁をバシバシ叩いてる。やめてください俺じゃねえ。死んでしまいます。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

○いつも助かっております

 

 

古事記」の 神代に登場する、四国についての一文がなんか興味を惹かれたりします。 伊邪那岐伊邪那美による国生みの場面で。

原文

次生伊豫之二名嶋此嶋者身一而有面四毎面有名故伊豫國謂愛上比賣 此三字以音下效此也 讚岐國謂飯依比古粟國謂大宜都比賣此四字以音土左國謂建依別

「新版古事記現代語訳付き」中村啓信訳注 p465

 

翻訳

次に伊豫の二名嶋を生む。此の嶋は身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故伊豫苦にを愛比売と謂ひ、讃岐国を飯依比古と謂ひ、粟国を、大宜津比売と謂ひ、土左国を建依別と謂ふ。

「新版古事記現代語訳付き」中村啓信訳注 p27

 

四国というのは日本の中でも特殊性が高いというのは、誰でもなんとなく知ってることです。全国に霊場と呼ばれるものがあるなかで、四国の八十八ヶ所霊場弘法大師空海がひらいた霊場として一番知られているし。

島に4つの国があるから四国というのは、国の数が島の名になっているのに、何故か本来の名称が二名島で、国が二名しかいないみたいな矛盾を孕んでいたりするのは、なんか妙なものを感じてしまったり。

四国の剣山には一説に契約の箱と呼ばれるものが運び込まれたなんて伝説もあったりしますね。でも発見されないのは徳川埋蔵金みたいです。

香川県人は、うどんをやたら食べるらしいです。全国のうどん生産量で、平成21年のランキングを見たところ、1位は香川県で6万トン、2位が埼玉県で2万4千トンということだから、香川県人は体がうどんで出来ていて、血液はだし汁だっていう都市伝説もアリですね。

 

そんな奇妙な四国ですが、ヨハネの黙示録と結びついていると言ったら、うどんが鼻から出ますよね。

ヨハネの黙示録とは人類が終末のときに辿るかもしれない未来を表しているというのですが。

 

ヨハネの黙示録(口語訳) 

 

第4章

4:6

御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近く、そのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。

4:7

第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。

4:8

この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、「聖なるかな聖なるかな聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。

 

第5章
5:6

わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。

 

第6章
6:1

小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。

 

6:5

また、第三の封印を解いた時、第三の生き物が「きたれ」と言うのを、わたしは聞いた。そこで見ていると、見よ、黒い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、はかりを手に持っていた。

6:6

すると、わたしは四つの生き物の間から出て来ると思われる声が、こう言うのを聞いた、「小麦一ますは一デナリ。大麦三ますも一デナリ。オリブ油とぶどう酒とを、そこなうな」。

 

ヨハネの黙示録(口語訳) - Wikisourceより

こんなふうに、奇妙な物語が展開していくわけなんですが。 

この四つの生き物とは、エゼキエル書のケルビムと、同一視することもあり。

 

智天使(ケルビム)


旧約聖書の創世記によると、主なる神はアダムとエバを追放した後、命の木への道を守らせるためにエデンの園の東に回転する炎の剣とともにケルビムを置いたという。また、契約の箱の上にはこの天使を模した金細工が乗せられている。神の姿を見ることができる(=智:ソフィア)ことから「智天使」という訳語をあてられた。

エゼキエル書10章21節によれば、四つの顔と四つの翼を持ち、その翼の下には人の手のようなものがある。ルネッサンス絵画ではそのまま描写するのではなく、翼を持つ愛らしい赤子の姿で表現されている。これをプット(Putto)という。

「彼はケルブに乗って飛び、」(サムエル記下22章11節)「主はケルビムの上に座せられる。」(詩篇99編1節)といった記述があり「神の玉座」「神の乗物」としての一面が見られる。

ケルブの起源はアッシリアの有翼人面獣身の守護者「クリーブ(kurību)」といわれている[1]。

旧約聖書によるとケルビムの姿は「その中には四つの生き物の姿があった。それは人間のようなもので、それぞれ四つの顔を持ち、四つの翼をおびていた。…その顔は“人間の顔のようであり、右に獅子の顔、左に牛の顔、後ろに鷲の顔”を持っていた。…生き物のかたわらには車輪があって、それは車輪の中にもうひとつの車輪があるかのようで、それによってこの生き物はどの方向にも速やかに移動することができた。…ケルビムの“全身、すなわち背中、両手、翼と車輪には、一面に目がつけられていた”(知の象徴)…ケルビムの一対の翼は大空にまっすぐ伸びて互いにふれ合い、他の一対の翼が体をおおっていた(体をもっていないから隠しているという)…またケルビムにはその翼の下に、人間の手の手の形がみえていた(神の手だという)」とされている。

 

智天使 - Wikipedia

ヨハネの黙示録の四つの生き物、エゼキエル書の四人の智天使は おなじであり、姿が違っているのかもしれないです。

 

四国と四つの生き物(智天使ケルビム)で、「四」つながりだから?

ということは分かっても、その他の接点はわかりにくいので、ちょっと並べてみて相似点を探してみました。

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霊的なもの

 

智天使は別名を「プット」と呼ぶらしいですね。これを知って気づいたのですが、四国の昔の別名が「伊豫之二名嶋(いよのふたなのしま)」だったことは明確な理由があったんですね。

つまりこれが実は「いよのぷっとなのしま」なのであろうと。プットを漢字で表す時に「二(ふた)」を使ったのかもしれません。

「伊豫の智天使島」と言い換えることができて、おかしくなかったんであると。四国は智天使島と言い換えても正解だと思いました。

プット - Wikipedia

 

とにかく四国はかなり霊的な土地なイメージが強いというのは、四国八十八箇所霊場の存在があってこそです。以前に映画の「リング」が上映されていた時に、同時に「死国」という作品が上映されていたのを思い出しました。

八十八ヶ所の霊場をぐるっと逆回り「逆打ち」することで、死者が蘇ることを題材にしたホラー映画でした。実際には逆打ちは幸福が増すみたいな意味であって、死者が蘇るというのは映画だけの設定だそうですが。

それにしても「死国」でヨハネの黙示録にある「死者の蘇り」という題材を用いているのだから、偶然なのか必然なのかといったところ。

四国という名前自体は「四つの国」ですが、これを言い換えれば「四つの身」であり、四身→黄泉(よみ)なのではないかという発想はありましたが。ヨハネの黙示録でも、死者の国=黄泉について言及していますしね。

ヨハネの黙示録」では数字の7が重要なキーワードです。一方で四国には七人同行、七人ミサキなんかもありますけど、これも何か死者と生者の奇妙な関係を語っているので意味深です。

 

 ・死国 - Wikipedia

七人同行 - Wikipedia

・七人ミサキ

 

香川県に凝縮

 

四国の香川県は、「ヨハネの黙示録」的な要素がいろいろ組み込まれていると感じませんか。

香川県には小豆島にエンジェルロードと呼ばれている砂州の道があり、これは近年に命名されたといっても、智天使つながりです。霊的に運命的に繋がりをもっている、時代を超えて名前や特徴でも共通項が出てきたりするらしいですね。「死国」の件もそうですが、これも典型。

四つの生き物には無数の目が、子羊には七つの目があるとのことですが、香川県は目にご利益のある神や寺院が各地にあります。

四つの生き物はオリーブと小麦を殊更に大切なものとして取り上げましたが、じつは香川県県花がオリーブなんですね。

全国のうどん業界で他を圧倒する香川県のうどんの原材料は、小麦ですよね。このあたりも運命的に繋がりがあると見られます。

 

徳島県の剣山

 

四国を象徴する山は剣山ですがこれがあるのは徳島県です。厳密にいうと古墳時代律令制阿波国があった頃から、美馬郡が広がっている地域に剣山があるんです。

一方で「ヨハネの黙示録」を読んでみると、白い馬の騎士、黒い馬の騎士、赤い馬の騎士、青い馬の騎士が登場するんですが、そのうち赤と青の馬の騎士は、剣(つるぎ)を与えられているのです。

 

美馬郡に剣山

・赤い馬と青い馬に剣

まあ意味深ですよ。

 

四国のヨハネの黙示録

 

古事記の編者だった太安万侶が、ヨハネの黙示録の漢文訳を手元に起き、それを古事記の中に含ませた、可能性はあったと思うのですよね。または「古事記」の原文となった「旧辞」「帝紀」ほか未知の書物が、旧約新約を含む知られざる情報源を持っていたということも。

太安万侶が用いた原文の、伊予=伊豫をあらわす漢字にも、あらわれているようです。

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この漢字は漢音でも呉音でも「ヨ」ですが、「あらかじめ」「かねて」「あたえる」と言います。

「予言」という未来を見通す言葉の予は、伊予の予=豫なんですよ。豫言。伊豫。

 

四国は、未来を予知、豫知する者がいる島として、倭で知られた島だったのかもしれないですね。

それが伊豫之二名嶋=四国の正体だとすると、ヨハネの黙示録と関連づいていることも、あながちデタラメではないようです。四国八十八ヶ所霊場空海により開かれたのも必然的だったみたいな。

 

たとえばこんな解釈してみたら。

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伊豫之二名嶋は、そのものがヨハネの名を含んでいたんではないかと。

 

ヨハネの黙示録」は豫言の書だから、四国=伊豫二名嶋にも豫が用いられ、 智天使ケルビムのプットの名が含まれ、顔四つ、馬と剣など、ありとあらゆる種類のヨハネの黙示録に登場する四つの生き物の特徴が、四国の中に凝縮されている。

仕上げに四国の別名伊豫二名の中にヨハネの名が込められている。

これは全て必然的であって、おかしくなかったみたいなことです。

 

すると、終末的にはヨハネの黙示録の予型が四国に現れてくるということも、ありうる話ですが、何か天空や地上にしるしが現れていますかね。

逆に言うと何もないならそれでいいし、空海の八十八ヶ所霊場の最大のご利益かとも思いますし。

 

古来より、ヨハネの黙示録の四つの生き物と日本の四国は如何にして結びついたのか、分かってきました。

それとも結びつけているのは俺なんだとしても、それもまことの理りかもしれないですが。

 

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富士山の別名がハラミ山だったことから分かる仏教思想の影響

徐福のことを書いてみたら、また富士山について思いついたことがあるので、富士山の話。

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ところで、グーグルマップから立体図に移行すると、富士山は赤いんですね。なんで赤富士なのだろう。

赤富士

赤富士(あかふじ)は、主に晩夏から初秋にかけて、早朝に富士山が朝日に染まって起こる現象。青い富士山が朱色に染まることが語源。

(中略)
一般に縁起の良い事として知られ、夏の季語にもなっている。

赤富士 - Wikipedia

縁起物だったということで、赤だから不吉というわけでもないらしい。

 

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あ、富士山といえば。

どーん、どーん、どーん。ズゴゴゴオオオーーー、ズーン、ズーン、ズーン。朝も昼も。深夜もなんかトントン聞こえることがある。

外で鳴っている音なのだが。

東富士演習場の音?、航空機の音。

お隣の爺さん婆さん、俺が騒音を発生させていると思い込んでいるらしく、ゴン!ゴン!と壁か床を四六時中、小突く・・・。

外で鳴ってる音なのが、分かんないのだろうか。長く住んでんだったら、分かってる筈なんじゃないの?

朝から深夜まで毎日毎日、散々ゴンゴンやりやがって。自宅から少し離れて音を確認すれば分かることなのに。分かっててやってるのか?

ボケてるのか。(ノ`Д´)ノ彡┻━┻

 

じゃ本題に戻って。

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富士山の別名はハラミ山

 

富士山は昔からフジ山でしたが、漢字が違ってました。

富士山についての最も古い記録は『常陸国風土記』における「福慈岳」という語であると言われている。他にも多くの呼称が存在し、不二山もしくは不尽山[注釈 3]と表記する古文献もある。

富士山 - Wikipedia

 福慈山、不二山、不尽山という漢字表記もあったとか。

福と慈しみの山、二つとない(不二)山、尽きることのない(不尽)山というふうに、賞賛する意味が込められていますね。一富士二鷹三茄子と言うし、昔から富士山を縁起物にしたかったようですね。

  

富士山にはもう一つの別名がありました。それは「ハラミ山」。

これは古代中国の神仙思想と切っても切れない関係で、富士山は蓬莱山そのものだとされていたことに由来するとか。

日本における蓬莱

日本では浦島伝説の一つ『丹後国風土記逸文では「蓬山」と書いて「とこよのくに」と読み、文脈にも神仙などの用語が出てくること、田道間守の話や他の常世国伝承にも不老不死など神仙思想の影響が窺えることから理想郷の伝承として海神宮などと習合したとも思われる。

平安時代に、僧侶の寛輔が、「蓬莱山」とは富士山を指すと述べた[5]。

竹取物語』にも、「東の海に蓬莱という山あるなり」と記される[6]。ほか、「蓬莱の玉の枝」が登場するが富士山の縁起を語るところではやはり不老不死の語が出ており神仙思想との繋がりが窺える。

ホツマツタヱ』では蓬莱山(富士山)の蓬莱の意味は「はらみ」と呼ばれ、食べると千年寿命が延びるという、蓬莱山(はらみ山)に生えていたとされる、栄菜(はほな)、老菜(らはな)、身草(みくさ)の千代三草の頭文字のは・ら・みを意味していると言われ、また孝霊天皇の御代の500年前の蓬莱山(富士山)の火山噴火で千代三草は絶滅したとされている[7]。

また蓬莱山(富士山)の麓に蓬莱宮(はらみの宮)が存在していたとされてる。天孫降臨のニニギの時代にニニギが蓬莱宮と名付けて、宮をきらびやかに改築して宮を統治していたとされ、後にこれは酒折宮と呼ばれる様になった。孝霊天皇の御代の500年前の蓬莱山(富士山)噴火で、宮は大きな被害を受けた為、廃宮として、後に甲斐国に別の酒折宮が建てられたとされる。ヤマトタケルが東征の帰りに甲斐国酒折宮に立ち寄った時、朽ち果てながらもニニギ時代の蓬莱宮の建物の面影を残す廃宮にも立ち寄り、尾張国にニニギの蓬莱宮と同じ宮を建て、結婚の約束をした尾張国造の娘宮簀媛と暮らして楽しみたいと願った。ヤマトタケルの望みを聞いた、尾張国造乎止与命が蓬莱山(富士山)の麓の廃宮の蓬莱宮こと旧酒折宮に行き、新しい蓬莱宮を建てる為、宮を描き写した。ヤマトタケルの死後、ヤマトタケルの生前の願いを叶える為、熱田にニニギの蓬莱宮と同じ宮が建てられたとされている[8][9]。

蓬莱 - Wikipedia

富士山こそが神仙の蓬莱山で、蓬莱と書いてハラミと読むらしいです。

ホツマツタヱ」にある、孝霊天皇のカ所は全部目を通していますが、ちょっと火山噴火の年代や富士五湖の形成過程が合わないなど、おかしなところもあったりするのですが。なんで蓬莱と書いてハラミなのかは、

栄菜(はほな)、老菜(らはな)、身草(みくさ)の千代三草の頭文字のは・ら・みを意味していると言われ、

とあったりしました。

これは後から取ってつけたような意味な感じがするのですよ。だから本来のハラミの意味があるのではないかと。

 

ハラミ山は本来、波羅蜜山か

 

以前にこんな記事書いてましたが。

封じは晴れたり日本晴れ。八に纏わる富士山

 

富士山には八神峰という8つの峰があるんですよ。

八神峰

八神峰の他にも「富士八峰」や、仏教でいう八葉蓮華から由来した「八葉」という名称で呼ばれることもある[1]。

噴火口(大内院)の縁を形成する峰のうち顕著に高い頂きにそれぞれ命名されている。これら各峰は仏教関連の名称より由来していたが、神仏分離令により名称が変更された。多くは明治7年(1847年)に改称されており[2]、このため同じ峰でも複数の呼称が存在している。 中でも剣ヶ峰は日本最高峰として代表的な存在である。

富士山の絵画で見られる山頂部の突起の描写はこの八神峰である。

 

・剣ヶ峰 3,776m
・白山岳(釈迦ヶ岳)3,756m
・久須志岳(薬師ヶ岳)3,725m 
・大日岳(朝日岳)3,735m
・伊豆岳(観音岳阿弥陀岳)3,749m 
・成就岳(勢至ヶ岳・経ヶ岳)3,733m
・駒ケ岳(浅間ヶ岳)3,722m
・三島岳(文殊ヶ岳)3,734m

 

八神峰-Wikipedia より 

これ見て分かる通り、富士山の8つの峰それぞれには、仏教に関係する名前もついているんですよね。釈迦、薬師、大日、観音、阿弥陀、経、文殊

しかも富士山頂には「釈迦の割れ石」があるし。

だからハラミ山も、仏教伝来以降の名称でおかしくないとすると。

 

波羅蜜山」

これが思い浮かぶしか無いですね。

波羅蜜
波羅蜜(はらみつ)、あるいは、玄奘以降の新訳では波羅蜜多(はらみた、はらみった) (パーリ語: पारमि、Pāramī、 パーラミー、サンスクリット語: पारमिता、Pāramitā、 パーラミター)とは、パーリ語サンスクリット語で「完全であること」、「最高であること」、を意味する語で、仏教における各修行で完遂・獲得・達成されるべきものを指す。到彼岸(とうひがん)、度(ど)等とも訳す。

波羅蜜は、完全であること、最高であること。

福慈山、不二山、不尽山、一富士二鷹三茄子

日本人が昔から富士山を褒め称えていることと、波羅蜜山が完全で最高であること。一致していますよね、ハラミが褒め言葉だとしたら。

富士山は神道修練者、修験道の修だけじゃなく、仏教僧にとっても修行の場であった、このことは富士山頂の八神峰の名前からも分かってきますし。

そういえばハラミ山も「八ラミ山」で、数字の八に関わってました。

 

つまり自分の中で、結論としてハラミ山とは波羅蜜山であり、仏教伝来以降に富士山に付けられたものが、「ホツマツタヱ」に含まれたと見るのですが。

その呼び名はいつしか廃れたのは、富士山の名のほうが強く心に響くからですかね。

 

じゃ富士山は須弥山なのか?という点も気になるのですが、これはまた今度。

  

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俺じゃないのに俺のせい

いつもワケの分からない、奇妙で気持ち悪い出来事に巻き込まれてしまう俺。

 

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埼玉県にいたときのことを思い出すと

 

飛行機「ぶうううううーーーー」上空を飛ぶ飛行機

近所の子供「あいつがやってんだよ!」「キャー!」(自宅前に叫びにくる)

罵声と奇声を浴びせられる。

俺「俺じゃないんだが・・・」

 

これがリアルで起きてた。

 

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兄軍団「ブオーンブオーンブオーン!」軍団がバイクをふかす。

暴走族「ブオーンブオーンブオーンぶーーーーー」(わざとうちの前で煽っていく

近所の子供「あいつがやってんだよ!」「キャー!」(自宅前に叫びにくる)

罵声と奇声を浴びせられる。

 

 俺「俺じゃないんだが・・・」

 

中学生「あー出て行けー!」

youtu.be

俺「俺じゃないんだが・・・」

 

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新天地

 

飛行機「ぎゅいーーーーーん!ドーン!ドーン!ドーン!・・・」

俺「なんだこの音・・・イルミナティ集ストの嫌がらせか」

引っ越して間もなく、爆発音が連日のように自宅前で発生するようになった。

 

俺の過去の経験およびこれまでに得てきた知識で判断すると、「飛行機の衝撃波が近隣の山の斜面にぶつかる音じゃないか」と思った。

するとなにか近隣が騒ぎ出している。

何かを家で叩く人。こちらに向けて大声で敵意をぶつけだす人々・・・

飛行機が飛ぶ度にバンバン叩いて聞かせたがる人・・・

 完全に俺のせいになってる?

 

俺「あぁ、またこれか・・・俺じゃないのに俺のせい」 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

酷い仕打ちをされたので相談した

 

連日、色々ひどい目にあった。俺じゃないのに、ふざけやがって・・・イライラが募った結果、各地に相談した。

1・この街の管理事務所

2・市役所

3・国土交通省航空局

 

ひどい仕打ちが続けば、今後も増えていくかもしれない。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

飛行機の衝撃波による爆発音は存在する

 

YouTubeで旅客機の衝撃波と爆発音の映像を見つけた。

この映像ですが、音を大きめにして、4秒、19秒、28秒のところを聞いてみてください。

す「ボーン!ボーン」と爆発音。これがジェット機の衝撃派が、山の稜線にぶつかって発生する爆発音。

俺の家のあたりで聞こえる音に似ていますが。

 

どうすりゃいい

 

俺が住んでるところは標高380メートルの高原地帯。で、ジェット旅客機もこの映像と同じく低空飛行をしていることがあり、同じようにこんなソニックブームの音が聞こえていることが多いです・・・。

酷いときは一日中鳴っているし、家にピンポイントで直撃したりするのですが。

しかも俺じゃないのに、近隣からドカンドカンされたり、深夜に床下で猫が暴れてドカンドカンする。こういうことが起き始めたのだが、疑問はいくつか出てきました。

 

・俺が来てから、こういう音がし始めたのだろうか。

・以前は一度もこんな音が出たことなかったのだろうか。

・俺が引っ越してきたのにタイミングを合わせて、こんなことにしているのだろうか。

・俺が騒音源だと周囲に思い込ませ悪者にしたいのだろうか

・埼玉にいたときと同じように、騒音が俺じゃないのに俺のせいになった、すると指示系統はやっぱり同じだろうか。

ジェット機の衝撃波って、特定の家に向けて狙ってぶつけられるものなのか・・?

・「ケムトレイル」みたいな、知られざる技術の一つが俺に対して公開されたのか?

 

 

何か不自然すぎて、謎は尽きない。

 

市役所に問い合わせたら、東富士演習場と飛行機の爆音両方の可能性が

 

この街の市役所に、問い合わせてみたところ、回答いただきました。

専門家の先生によれば、富士山ふもとの「東富士演習場」で毎日やってるらしい演習の爆発音が、風向きによってはこの地域まで聞こえてくる可能性があるとのことでした。

演習場からここまでは20~25キロも離れてるんですが。聞こえることはあるようです。ほかにも爆音については、気になって問い合わせてる人がいるらしいです。

 

でも、演習場の音なら納得ですが、深夜2時にも飛行機の音に合わせてドン・ドンと聞こえるのを考慮すると、演習場の音だけじゃ~ないですね。

 

一方で専門家の先生は、飛行機の衝撃波はありえないとか言ってたそうなのですが、冒頭の映像を見てわかる通り、高原地帯ではあり得るんですよ。

実際、最近は低空飛行の飛行機が飛ぶたびに、爆発音がくっついてきてすごいですし、なぜか俺のせいにされてるみたいだし。

 

ジェット旅客機ばかりじゃないらしい

 

上空をどんな飛行機が飛び交ってるのかは、このサイトを見たら一目瞭然です。

https://www.flightradar24.com/35.07,139/12

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上は深夜3時

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上は13時

 

夜間飛行の飛行機もけっこういるみたいですが、これをリアルタイムで見ていて気づいたのだが、レーダー上にいない時間帯にも、爆発音を出して飛ぶ飛行機があるってことに。

そういや、自衛隊の輸送機が2機、こんな高原の新居の上空の低空を飛び交っているのを見かけましたが。北海道の北斗市自衛隊機が墜落する2日前だったか。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

俺じゃないのに俺のせいにして、どうしようというのか。そんなに俺を責めたいのかと。航空機という駒を駆使した個人向けのシナリオだろうか。

引っ越してきたばかりだけど、ストレスやら電磁波攻撃なのか、心臓やリンパが痛いしもう引っ越したい。でもお金がない。

 

関連記事

山間部に響き渡るドーンという爆発音の正体はジェット旅客機のソニックブームなのか

 

近所の子供が十数年間も不快なほど叫び続けた相手はほとんど飛行機だった 

 

これも読んで下さい。

 

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神武天皇が派遣した天富命、始皇帝の下から旅立った徐福は奇妙な一致を見せる

新居にきて1ヶ月を悠に経過した。のだけど、家には慣れたと言っても、なんだか精神的には落ち着かない。

べつに外界に用事が殆どないので、外出するということは滅多になくて、埼玉にいた時よりストレスは減ってるわけですけど。それでも人に過剰にストレスを与えたがる人はどこにでもいる。第2次大戦中の泣く子も黙る憲兵隊みたいな。

椅子に座ったり横になりつつ、毎日5,000~10,000字くらいのライターのお仕事、それに電子書籍やブログに手を付け、掃除をしたりして過ごす。買い物は全部通販。この繰り返し。

 

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徐福と天富命

 

気晴らしに徐福と天富命(あめのとみのみこと)について、俺が知ってることを語ろう。

 

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Xu Fu - Wikipediaより

 

始皇帝の元にいた徐福の話は、日本でもかなり知られてます。中国では徐福=シュフと呼ぶとか。

史記』による記述

司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。

徐福 - Wikipedia

 

徐福の伝説は手元の「後漢書倭伝」にも載っていました。

会稽の海外に東鯷人あり、分れて二十余国と為る。また、夷洲および澶洲あり。

伝え言う、「秦の始帝、方士徐福を遣わし、童男女数千人を将いて海に入り、蓬莱の神仙を求めしむれども得ず。徐福、謀を畏れ敢て還らず。遂にこの洲に止まる」と。

世世相承け、数万家あり。人民時に会稽に至りて市す。(以下略

 

「中国正史日本伝(1)」石原道博編訳 「後漢書」倭伝より 

 

まとめると、方士だった徐福が、子どもと技術者あわせて数千人を率い、蓬莱山のある倭へ旅立ち、そのまま倭に留まったという話でした。

 

方士というのは、 

方士

中国古代の方術を行なった人。方術とは,卜筮,医術,錬金術などをさす。『史記』の「封禅書」と「秦始皇紀」に初めてその名がみえる。戦国時代の後期から燕や斉の地方を中心に不老不死の仙薬について説いた人で,その説を秦の始皇帝漢の武帝も信仰した。この呼称は三国時代まで使われ,晋代に入っておもに「道士」といわれるようになった。

 

方士(ほうし)とは - コトバンクより

 

集合知、物知り博士、生き字引、賢者みたいな存在が、まさに除福だったわけなんですよ。

こんな賢者が1人いたら、未開の土地の住人も文明化されてしまいます。

でも徐福のいた紀元前3世紀の日本列島からは、漢字の断片すら見つかってないようです。なぜなのだろう。

 

・・・

 

ところで日本の古典三書の一つに数えられる「古語拾遺」を見ていると、なんだか除福の話によく似た話があるものだなと、気づいたわけなんですが。 それは10年くらい前だったろうか。

 

日本書紀」や「古事記」に出てこないのですが、神武天皇のときに天富命(あめのとみのみこと)がいました。

天富命

天富命(あめのとみのみこと)は、太玉命の孫。神武東征において橿原宮を造営し、阿波国に続いて房総の開拓をした。

神武東征においては、手置帆負・彦佐知の二神の孫の讃岐忌部・紀伊忌部を率い、紀伊の国の材木を採取し、畝傍山の麓に橿原の御殿を作った。また斎部の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を作らせ、そのうち櫛明玉命の孫の出雲玉作氏は御祈玉を作った。

そして、天日鷲命の孫の阿波忌部を率いて肥沃な土地を求め、阿波国に遣わして穀・麻種を植え、その郡の名は麻殖となった。続いて更に肥沃な土地を求めて阿波忌部を分けて東国に率いて行き、麻・穀を播き殖え、良い麻が生育した国は総国と言われ、穀の木の生育したところをは結城郡と言われ、阿波忌部が住んだところは安房郡と言われた。やがてその地に祖父の太玉命を祀る社を建てた。現在の安房神社でありその神戸に斎部氏が在る。また、手置帆負命の孫は矛竿を造り、その末裔は今別れて讃岐の国に在り讃岐忌部氏として年毎に調庸の他に八百竿を奉るのは、その事のしるしである。

天富命 - Wikipedia

 

天の岩戸で活躍した神、天太玉の子である天富命は、巫覡・神主であり、建築家であり技術者であり職人であり、植物学者であった、まさに集合知を欲しいままにする賢者だったんですよ。そういう意味で、なんか徐福に似ていますね。

 

共通点

 

徐福と天富命が似ているのは、特殊な行動にも見て取れます。

徐福 

始皇帝の下にいた徐福(賢者)、3,000人の童子と技術者を率い、五穀の種を持って東方の倭へ船出し王となった

天富命

神武天皇の下にいた天富命(賢者)、阿波忌部を率い、東の安房へ向かい麻・穀を殖え総国(千葉)の開拓者となった

 

どちらとも、賢者が大勢を率い種を持って、東の「わ(あわ)」へ向かっているところです。しかも、倭と安房は、かけ合わせてるでしょうね。

これはまさに、天富命が、除福の行動を踏襲したといえるのではないかと。すると除福を送り出した始皇帝が、天富命を送り出した神武天皇に対応しています。

 

あとはこれも関係しています。

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両者とも、畐(お酒が入ったとっくり)で幸い(しあわせ)な文字が含まれているということは、やはりこの2人は関連付けていることになりますね。

漢字は徐福の時代には倭になかったので、天富命のほうが後の時代ということになりそうです。徐福も天富命も、お酒が好きだったんですかね。

同一人物かというと、そうでもないような気がします。

 

  「歴史は繰り返す」とは言いますが、それは偶発的に起こる場合と、必然性をもった古くよりのシキタリとして先人の行動を繰り返す、ならぞえて動くみたいなことが関係することもあるんではないかと。

歌舞伎や浄瑠璃などの伝統芸能で昔の演目を繰り返すこと、天皇の即位の儀である大嘗祭では古代の儀式を再現すること、そうしたものに近いのではないかと。

 

もう一つ加えるなら、個人的には、ユーラシア大陸と日本列島の雛形論が、天富命の話にも入り込んでいるのではないかと考えてしまいます。 

 

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