小説を書いてるんだが、まるで人気がない。
そこに登場するキャラを適当に描いてみた。
たっちゃんのWebコンテンツ | アルファポリス - 電網浮遊都市 -
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○いつも助かっております
小説を書いてるんだが、まるで人気がない。
そこに登場するキャラを適当に描いてみた。
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前回の記事、ちょっと修正しました。
基本的に、日本に最初にあった邪馬台国は九州であり、後に奈良盆地に移ったという「邪馬台国東遷説」を支持しているので。これを書き忘れていました。
2つが融合してる邪馬台国の話については、また今度。
前回
侏儒(土蜘蛛)国から分かる卑弥呼の邪馬台国の場所 - たっちゃんの古代史とか
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○いつも助かっております
とにかく「隋書倭国伝」は九州の邪馬台を記録した
九州にあった邪馬台国について、もう少し情報を補足します。
卑弥呼の頃の邪馬台国の場所が九州であることを、知る要素は、他にもあったわけなんです。その辺をもっと考えていこうかと。
古文書と成立年代
・魏略(3世紀前半)・・・魏志倭人伝の元になっている書物。逸文のみ。
・魏志倭人伝(3世紀末)・・・卑弥呼の頃の倭について最も詳しい。著者の陳寿は倭を実際に訪れていないとか
・後漢書倭伝(5世紀中頃)・・・魏志倭人伝より先に書かれ始めたが、完成は魏志以後。
・隋書(7世紀)・・・7世紀以前の倭について分かる。
・晋書倭人伝(7世紀)・・・壱与についての記述が含まれると見られる
・旧唐書(10世紀)・・・かなり後になって書かれたが、倭国のことが含まれる
ほか。
これら全部、岩波文庫の「中国正史日本伝1~2」で見れます。どれも倭国のことを書いている貴重な書物です。
「隋書倭国伝」は邪馬台国研究では注目度が低いほうですが、じつは日本列島の地勢を知れる一文があるんです。
「其國境東西五月行南北三月行各至於海其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」
中国正史日本伝(1)p128
翻訳
「その国境は、東西は五月の行程、南北は三月の行程で、おのおの海に至る。その地勢は、東が高くて西が低く、邪靡堆に都する、すなわち魏志のいわゆる邪馬台というものである。」
中国正史日本伝(1)p95
これは明らかに倭の首都が邪馬台国だった頃を、書いているとみられるんですが。
ここで言っている「下」というのは、この訳文では「日本列島の西方は標高が低い」という意味で使われていました。
実際に日本列島は西日本は高い山が少なく、東日本は日本アルプスや富士山など3,000メートル級の山々が連なっているわけなので。
原文や翻訳文だと分かりにくいですが、実はこの一文に「邪馬台国が西方にある」という情報が、含まれているのではないかと。
これです。
其地勢東高西下都於邪靡堆
「西下都於邪靡堆」の一文を解釈すると、「西の低地帯に邪靡堆の都を置いた」と言う情報までもが、含まれているのではないかと。
しかも日本の古墳時代の頃からの律令制時代、九州(筑紫島)がなんと呼ばれていたかというと「西海道」。
なのでこの「西下都於邪靡堆」という一文が、邪馬台の位置は九州だと結論づけてる可能性はあるのですが。
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倭の時代を描いた「四海華夷総図」も女王国は九州なことを示唆
そもそも倭国というのは、「2つを合わせた存在だ」というのが根底にあるのは間違いないところですよ。
日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。あるいはいう、 日本は元小国、倭国の地を併せたりと
中国正史日本伝(2)より
倭国と日本国を併せた。それはおそらく「九州と本州」を併せたという意味ではないかと。実際そういう絵図が残ってますし。
この「四海華夷総図」は1532年、中国が明(ミン)朝だった頃に描かれたもの。
倭と九州に分かれて描かれていますが、
・日本国とあるのが本州
・倭とあるのが九州
で間違いないですね。
北海道、本州、九州、沖縄、というふうに日本列島の主要な島々が全部揃っているし、小琉球(台湾)の名もあるし。九州はぐるっと45度回転させた感じで。
これは前述の、10世紀に編纂された「旧唐書」の記述をもとに作られている地図と見て良いかと。
日本の歴史上で国号に「倭国」が用いられていたのは、7世紀までのことでした。670年に日本に改名したことが「新羅本紀」にあるとか。
ちなみにこの「四海華夷総図」は、正距方位図法らしい。
という正距方位図法を作成できるツールがあり。これを元にして「四海華夷総図」と比較すると、こんな感じに。
正距方位図法だから、九州や本州の向きが傾いているというわけ。地中海も同様に。
図上の倭=九州ならば、九州の中心都市は邪馬台国だったことになるわけですが。この地図は「倭と日本が別れていた7世紀以前の日本」を描いたものであり、九州に邪馬台国があったことを、物語っていますよね。
隋書では「阿蘇山あり」ともあることから、九州邪馬台国のそばに阿蘇山があることも物語っているではないかと。
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ということで倭の女王卑弥呼のいた邪馬台国が九州にあったという情報は、昔の中国の記録から読み取れたわけなのですが。
でもこれは、日本列島で最初の邪馬台国が3世紀前半の九州にあったという意味で、3世紀後半以降には、近畿の奈良盆地へと、邪馬台国が東遷しているという仮説を支持しています。これは、以前からあったものでした。
こうした情報を元にして、従来とは全く別な発想も可能になってきました。それが「2つが融合してる邪馬台国の話」ですが、これはまた後ほど。
(2022年追記。この記事のあと引っ越しました)
この街(埼玉県K市)と俺の秘密を、想像力を使って少し開示します。
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洪水
最近、なんだか「洪水」というキーワードが、頭の中を巡るようになった。わけなんですよ。
それは旧約聖書のノアの時代の大洪水であるとか、ノアというのはシュメールの神話に登場するウトナピシュティムと同一人物なのかとか。
モーセがアロンの杖により海水を操作して敵軍を沈めたのは一種の人為的洪水かとか、それは「日本書紀」でいえば山幸彦が使った潮盈珠(しおみつたま)と潮乾珠しおふるたま)という洪水をもたらす道具と似たものであるとか。
そういえばアトランティスが沈んだというのは要するに南極大陸の出来事で海水の洪水がやがて凍りついて氷床になったという出来事で、基本的にはノアの箱舟と同じ出来事を別視点でかたってるのがアトランティス伝承なのかーなどと考えていたことが、複合的に影響してたわけなのやら、何なのやら。
そんな中で、アメリカでダム決壊危機とかいうぬーすがあって、なんかタイムリーだなと思った次第なんですよ。
日本で洪水と言えば東日本大震災の津波もありましたけど、記憶に新しいのは2015年9月に茨城県常総市で起きた大洪水ですね。「平成27年9月関東・東北豪雨」という正式名称らしいです。
これの原因になったのは台風18号が温帯低気圧となり、そこへ台風17号がぶつかってきたために、上空に長時間も継続して発生した雨雲でした。
24時間に300ミリを超える大雨が降り続き、鬼怒川の堤防が決壊して大洪水状態になっていました。その時なぜかヘーベルハウスだけが耐えたとかニュースになっていて、「ハーイ」とかいくらちゃんの声が自動再生されていました。
そう言えば春日部も、中心市街地が冠水して地下道は水で埋もれていたとか。俺はあの時、自宅に引きこもって、仕事とかブログ執筆などしてたんでは。あのときの雨雲レーダーの雲の状態は、その場に留まる長大な竜の如くに南北にあまりに巨大で、異常な印象を受けたとは記憶しています。
神殿
春日部には「神殿」と呼ばれる施設があって、それにより「平成27年9月関東・東北豪雨」の水害もある程度は防がれていたのですが。
ところで神殿とは、一般的には天の神に最も近い場所のひとつで、天から神が降りてくる依代を置く場所、神のそばで祈りを捧げる所、なんていう目的を為すところであるわけなんですよ。日本で言うと、神社の社殿とは神殿そのものです。
そんな神殿を冠する施設が、春日部には存在しているんですよね。
何故なのだろう?って考えたことはありますか。
世界最大規模の地下河川である「首都圏外郭放水路」の調圧水槽が、神殿と呼ばれているものの正体でした。
首都圏外郭放水路は全長6.3キロメートルあり、江戸川のそばに作られた長さ177m✕幅78mの調圧水槽空間は、巨大な59本の柱によって支えられてるとか。水を取り込む5本の立坑は、直径30メートルで深さ70メートルの巨大さだとか。こうした巨大な構造物が、近所の国道16号線の地下に作られてるわけなんですよ。これによって埼玉県東部一帯が洪水から守られているわけなんですよ、ご苦労さまでした。
建設が始まったのは1993年11月。俺が体調に異変を起こしてまともに生きられなくなった時期と重なっていました。
竜Q館
それで以前から1つの疑問というか、疑惑の対象物になっていたのが、春日部の神殿の上にある「竜Q館」のことです。
これは地下神殿の地上の附属施設であって、一般的には資料展示室として使用されていてるらしいです。行ったことはないのですが、内部はなにか「鍵(🔑)」みたいな形で仕切られているようで、意味深でもあり。
名前の由来は「春日部東部の庄和地区に伝わる火伏の龍の伝説と、AQUA(水)のQ」だということでした。ということなのだが、どうもしっくりこないんですよね。
というのも、「おほもと」という宗教団体の根幹を為す、出口王仁三郎が明治から大正期に著した「大本神諭」という書物の影が、この神殿と竜Q館にはチラつくようだったので。
大本神諭をチラっと読んだことがあるなら、なんとなく分かるワケなんですが。おほもとを信仰してはいないですが、どうも日月神示と関連があって興味深いのですよね。自分にも関係してるようで。
何故かと言うと、「大本神諭」には「竜宮館」という建物が登場しているからなのです。おほもとの竜宮館と、春日部の神殿と竜Q館の存在とリンクしているというのは、偶然ではないような気がしたわけなのですよ。
そこで、大本神諭の竜宮館とは、いったい何の役割があるのかを調べてみた。
王仁三郎データベース(王仁DB ベータ版)- 出口王仁三郎と霊界物語の総合検索サイト
によると、ヒットしたのは202件。どうやら大本神諭だけではなく、出口王仁三郎に関係する書物には、かなり登場してるようだったのです。
検索結果をいくつか抽出してみると、
・綾部の大本の龍宮館の高天原
・世界には昔から無かりた事が、綾部の陸の龍宮館の元の宮から出来るから
・龍宮館には大望な仕組が為て在るぞえ
・地の高天原なる陸の竜宮館
・竜宮舘の地の高天原に変性男子と女子とが現はれて
・出口の屋敷が竜宮館、高天原と相定まりて
・綾部の竜宮館(大本)を出発し
だいたいこういうことらしい。
綾部というのは京都府綾部市のことで、大本の発祥地を竜宮館というらしい。
京都の綾部の竜宮館は、日本神話で天神の集う高天原の地上版なのであり、艮金神(うしとらこんじん)こと国常立(くにとこたち)の尊(みこと)が降りてくる場所であるというのが、創設者の出口なお、出口王仁三郎らの認識でした。
実際に国常立という神様が降りてきて、「世の立て替え」というものが起きているなら、人類は未曾有の危機に直面していておかしくないですが、まだ立て替えは起きていなくて、これから起こるのだという感じで受け取って良いのかもですが。これはたぶんヨハネの黙示録にも似た啓示であると考えていいんですよね。
これに関連して、大本の流れを組む「日月神示」は、戦時中は多くの政治家がこぞって信じていたとか。
竜宮というのは、実は日月神示にも登場しているので、ちょっと集めてみる。
・十柱とは火の神、木の神、金の神、日出之神、竜宮の乙姫、雨の神、風の神、地震の神、荒れの神、岩の神であるぞ
・世に落ちておいでなさる御方一方、竜宮の音姫殿御守護遊ばすぞ。この方、天晴れ表(おもて)に現われるぞ
・海の御守護は竜宮の乙姫様ぞ
・竜宮の乙姫様グレンと引っ繰り返しなさるのだぞ
・竜宮の乙姫殿のお宝、誰にも分かるまいがな、びっくり箱の一つであるぞ。北が良くなる、北が光るぞ
・竜宮の乙姫様が神力天晴れぞ。金神殿お手伝い
おそらく大本の竜宮館と日月神示の竜宮とは同じですね。大本では教祖の出口王仁三郎が、自身を「変性女子」と言っていますね。自身を「竜宮の乙姫」にならぞえているからこそ、出口王仁三郎のいる場所を、竜宮館と呼んでいると考えられました。
ところで話は変わり、日本の地名は数珠つなぎ構造になっていて、九州の地名、近畿の地名、関東の地名など、同一系統の地名の連続であるというのが、拙著の電子書籍の骨子だったのですが。
九州に対応するのは、中央の近畿であり、関東でありということになり、
京都の竜宮館に対応しているのが、埼玉の春日部の竜Q館だった・・・
ということになると、考えていいわけなのですが。これは意図的なものか、偶然や運命的にそうなったかは分かりませんが。
すると、
・なんで春日部に大本や日月神示の思想が入っているのか?
・首都圏外郭放水路を建設した政府が、大本の思想を持っていることになるのだが
・春日部高天原に、国常立尊を降ろす場所を作った理由とは何か?
・それが何故に洪水施設なのか?
・単なる洪水対策施設なのか?もっと広大な地下空間が造られているのでは?
・そもそもナニモノが何のために?
などと、色々疑問が出て来るわけなんですよね。
そもそも、春日部にはこんな謎があり。
春日部市の市政がはじまったのは1954年(昭和29年)でしたが。
春日部は、戦後からずっと、日本では特殊で特別な街だったんですよね。なんでなのか。
ウェルズ
ここで何故か思い浮かぶ、H・G・ウェルズの予言
(原文)
Almond blossome in the spring sunshine.
Fuji-Yama gracious lady.
Island treasure home of lovely things,
Shall I never see you again?
翻訳はしないでおこう。
出口王仁三郎は言っていましたね。型の大本・・・
「大本で起こったことが日本に起こり、日本に起こったことが世界に起こる」
これが、神殿と竜Q館のある春日部にもあてはまっているかもしれないとすると・・・。あ。その時、1つの本の表紙絵が、俺の脳裏に再生されるのでした。
とある書物
本棚にあった一冊の書物を手に取った。以前は何気なく中身を読んでいただけなのに、今ではなにか狂気のメッセージを暗示する本に思えてくる。
奥付やウェブページで調べると、本の紹介ページの数字が目に飛び込んでくる。平成16年6月10日発行、50周年、103p、30cm、当該情報資源を採取・保存した日2016年10月3日。平成16年といえば、俺が体の異変を起こし露頭に迷いヒキコモリ人生をスタートした時期だった。
表紙の絵は、今になって見直してみれば、なにか抜き差しならぬ暗示がこもっているようで意味深だった。
下方に広がる黄金の大地と、中央に流れる黄金の川は、きっとこの街、そして代表するあの川の流れだろう。
真っ暗闇が市街地を包み込んでいる中で、黄金の朧月がぽっかりと空中に浮かんでいる。
よくみれば中央の黄金の川の手前には、荒れ狂う大波小波が迫っていた。ここは東京湾から40km以上も離れた内陸部のはずなのに。
そんな闇の景色のなかで、薄紫の藤の花だけが、静かに咲き乱れていた。
何か闇が全体を支配しているなかで、綺麗に浮き立つものがある。そんな黙示録的な陰鬱な趣向の絵を、何故めでたい50周年の本の表紙にしたのだろうか。備えあれば憂いなし。などと言うことわざが、不意に浮かんでは消えていった・・・。まぁ俺の暗澹たる人生を暗示しているとしたら、この表紙もありですけど。
「魏志倭人伝」の「侏儒」から、
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○いつも助かっております
ところで侏儒ってなに?というところから始まります。
焦僥人
『山海経』の大荒南経には、焦僥、僬僥(しょうぎょう)、海外南経には周饒(しゅうじょう)と呼ばれる小人たちが住んでいると記されている。焦僥・周饒はともに「侏儒」(しゅじゅ)という言葉が変化したものであり、「小人」ということを示す同一の呼び名であると考えられている。この事から焦僥人と周饒人は同一のものであると見られる。『外国図』には、焦僥人たちは強い風に吹かれると飛ばされてしまうことがあったと描写されており、強風が吹くと体をしっかり伏せてこれをまぬがれているという。
侏儒は、 中国で紀元前からの小人の名称だということ。
そういえば倭人の意味は、
倭
背が曲がってたけの低い小人の意。
「学研漢和大字典」より
なので、倭人も小人で、侏儒の一種だったんですけどね。いまや日本人のほうが、中国人より平均身長で上回っているとか。
そういえば焦僥の「僥」は、饒速日命の文字にも似てますね。
この侏儒が、「魏志倭人伝」に出てくる。
魏志倭人伝の侏儒
女王国の東、海を渡る千里余、また国あり、皆倭種なり。また侏儒国あり、その南にあり。人の長三、四尺
「中国正史日本伝(1)」岩波文庫より
三、四尺って、90センチ~120センチてことなわけだが・・・。
女王の千里の東に、侏儒国があるんですよね。
図にするとこうなる。
こういうことで、女王国の中心都市が邪馬台国です。
そして侏儒って、「日本書紀」にも登場します。
神武天皇の時代の侏儒
「高尾張邑(たかをはりのむら)に、土蜘蛛有り。其の為人(ひととなり)、身(むくろ)短くして手足長し。侏儒(ひきひと)と相似(あひに)たり。皇軍(みいくさ)、葛(かづ)の網を結(す)きて、掩襲(おそ)ひ殺しつ。因(よ)りて改めて其の邑を号(なづ)けて葛城と曰(い)ふ。夫(そ)れ磐余(いはれ)の地の旧(もと)の名は片居(かたゐ)。」
奈良盆地の高尾張邑に土蜘蛛がいて、侏儒と似ていた。神武天皇軍は網を使って襲って殺したとか。その後葛城とか磐余という地名がつけられたと。
ここで土蜘蛛(侏儒)は、襲撃されて抵抗した様子もなく、全滅したんですかね。
とにかく土蜘蛛が侏儒ということが判明。
情報を図に展開してみると、
「日本書紀」の侏儒の位置付けはこうなる。
まあ神武東征の舞台は、個人的にはユーラシア大陸での天皇家の祖先の出来事と、日本列島での卑弥呼軍の東征をあわせているんだろうな、と考えますけど。それはさておき。
ここから重要なのは、この2つの書物の侏儒を結びつけたり、いろんな想起できるものを全部呼び出してみるということ。
・神武天皇の出発地は九州の日向である
・卑弥呼(ひみこ)の名は日向(ひむか)ににている hi-m-k
・日向とは九州全域を指す名だった(肥前・肥後の元の名は健日向豊久士比泥別)
・女王国の本拠地は邪馬台国である
・女王国と侏儒国のあいだには、千里と表現されるおおきな海がある
・日本書紀で饒速日命が向かった先は奈良盆地だった。饒のつくりは侏儒の別名「焦僥・周饒」ににている。
こういった細かい情報を集めてまとめる。
すると結論は、なんだかんだでこうなった。
侏儒が奈良盆地にいるということが、2つの書物で表されるのだから、女王国の東の海とは瀬戸内海でしかないですね。
すると邪馬台国の位置は、瀬戸内海で隔てられた九州か四国か、という選択に迫られます。が、卑弥呼の名前がひむかであり、九州の名前がひむかであると考えると、女王国と邪馬台国の位置は九州一択で良いのではと。その後邪馬台国は東の奈良盆地へと東遷をしているという、いわゆる「邪馬台国東遷説」支持してますけど。
距離が千里というのは、適当な感じもあり、魏志倭人伝」の距離は、投馬国以降は女王国の国土を、中国に対して大きく見せたいっていう虚栄心が働いてるのかもしれず。
「魏志倭人伝は侏儒の位置については、正確に表していましたね。女王国の東(本州の近畿)の南(奈良盆地)と。
侏儒という存在からみちびいた場合、女王国の邪馬台国は、九州にあるしかないってことでした。
ところが・・・
ネットを見てたら、「トランプ大統領はニムロドを自称してる」とかいう話が出ていました。知らなかったです。ニムロドが、ギリシャ神話ではゼウスやアポロと似たものとされることから?
予期せずニムロドのことを書いてました。まぁ歴史単純な歴史研究ですので。
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バベルの塔は「崩壊した」として有名ですよね。
でも実は「旧約聖書」の原文では、「バベルの塔の崩壊は描かれていない」んですね。一体どういうことか・・。
そしてノア家の内乱とも言えた、アブラハムとニムロドの敵対ですが、その後のニムロドはどうなったんだろう。
実は正と悪の両面で記録が残されるニムロドの探求で、見えてくるものがあり。
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アブラハムとニムロドの生きた時代は紀元前2100年頃?
とりあえずニムロドが生きていた時代は何時だったか、調べてみました。
ニムロドの時代を知るなら、同じ時代のアブラハムの実在年代を調べればいいというわけで。ウィキペディアで年代記を調べてみる。
紀元前2100年代
紀元前2100年頃
・中国最古の王朝である夏を禹が建国した(紀元前2070年説もある)。 河南省偃師市二里頭遺跡を代表とする二里頭文化I期( - 紀元前1700年頃)が夏の初期に相当するとされている。
・ウルク王ウトゥ・ヘガルがエンニギの戦いでグティ王ティリガンに勝利。 グティ時代は終わりグティ人はメソポタミアから駆逐され、以後記録からは消滅する。
・現存する最古の法典「ウル・ナンム法典」が編纂される。 ウル第3王朝のウル・ナンム在位中(紀元前2115年頃 - 紀元前2095年頃)の頃とされる。
紀元前2100-2050年頃・ウル遺跡のジッグラト「エ・テメン・ニグル」が建設された。
紀元前2090年代
紀元前2094年頃
・ウル第3王朝の王シュルギが即位( - 紀元前2047年頃)。 この王によりニップルから出土した粘土板文書『シュルギの自賛』が書かれる。
・紀元前2091年 - アブラハム、イサク、ヤコブによる族長時代が始まった。
というふうに、アブラハムの実在した年代は、紀元前2100年ころということになってるらしい。日本だと縄文時代といったところ。
あ、この記事の1と2の仮説を踏まえると、「日本の記紀神話は、紀元前2100年以前のことまでも記録してる」に等しいわけなのですが。日本列島だけじゃなく、中東のことまでもごっちゃにして。そう考えると記紀神話ってスゴイと思うわけですが・・・。
アブラハムの実在年代としては、別の説では紀元前18~14世紀頃説もあって、確定しないとか。
ちなみに天地創造は正教会では紀元前5508年で、ほかの説でもおおむね紀元前6000~紀元前4000年の間ということになってる。
バベルの塔は崩壊していなかったかも
主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。
これをグーグル翻訳したので、ちょっと読みづらいですが。(ここはすっ飛ばしていいです)
伝統と伝説
Kitab al-MagallまたはRolls Book of Rolls(Clementine文献の一部)として知られている初期のアラビア語の作品は、Hadâniûn、Ellasar、Seleucia、Ctesiphon、Rûhîn、Atrapatene、Telalônなどの町をNimrodが建て、 Reuが163歳の時に王として、そしてPelegが50歳のときにNisibis、Raha(Edessa)、Harranを建てて69年間治世を築いたことを明らかにした。さらにNimrodは黒い布と王冠を空に見た。 "彼は織機を作ったササンに頼んで、そのような王冠を作るように命じました。彼は、王冠を着用した最初の王であると言われています。 "この理由から、それについて何も知らなかった人々は、王冠が天から彼に下ったと言った。その後、ニムロッドが火の礼拝と偶像礼拝をどのように確立したのかを記し、ノアの第四の息子であるバニターとの3年間の礼拝を受けました。
Recensionines(R 4.29)、Clementinesの1つの版では、ニムロッドは、ニネベの創始者であるギリシャの歴史家Ctesiasに最初に登場する伝説のアッシリア王のニーナスと同等です。しかし、別のバージョンでは、ホミ(H 9:4-6)、ニムロッドはゾロマスターと同じように作られています。(中略)
しかし、エフレム・ザ・シリア(306-373)は、ニムロッドが正義であり、タワーの建築家に反対しているという矛盾した見解を関連づけている。同様に、Targum Pseudo-Jonathan(日付不確定)は、Nimrodがメソポタミア南部でシナルを離れ、メゾポタミア北部のアッシリアに逃げたというユダヤ人の伝統を述べている。なぜなら、神が4つの都市で彼に報酬を与えたタワーを建設することを拒否したからです。アッスリヤ、バベルのものを取り替える。
Pirke De-Rabbi Eliezer(833頁)は、ニムロッドがアダムとイブの衣服を父親のクッシュから継承したことで、彼は無敵になったというユダヤ人の伝統を語っています。ニムロッドの当事者はその後、ヤペテ族を敗北させて、普遍的な支配権を獲得しました。後で、エサウ(アブラハムの孫)は、待ち伏せ、斬首され、ニムロッドを奪った。これらの物語は後に16世紀のシーファー・ハヤシャルを含む他の情報源にも現れます。ニャロッドにはマルドンと呼ばれる息子がいて、さらに邪悪であったと付け加えられています。
9世紀のイスラム教徒の歴史家、アル・タバリによる預言者と王の歴史の中で、ニムロッドはバビルに建てられたタワーを持ち、アッラーはそれを破壊し、その後人類の言語、旧シリア語は72言語に混乱します。 13世紀の別のイスラム教徒の歴史家であるアブ・アル・フィダ(Abu al-Fida)も同じ話をしており、アブラハムの祖先であるアブラハム家父は、この例ではヘブライ語を元の舌にしておくことが許可された。 10世紀のイスラム教徒の歴史家Masudiは、タムを建てたNimrodを、Shemの息子、Aramの子、Mashの息子にして、彼がNabateansを500年以上支配したと付け加えた伝説を述べています。その後、マズディはニムロッドをバビロンの最初の王とし、偉大な運河を掘って60年を支配したと述べています。他の場所でも、彼は占星術を導入し、アブラハムを殺そうとした人として、カナンの息子ニムロッドを言います。
アルメニアの伝説では、アルメニア国民の祖先であるHaykは、Van Van近くの戦いでNimrod(時にはBelと同値)を破った。
ハンガリー伝説の「エンチャント・スタッグ」(より一般的にはホワイト・スタッグ(FehérSzarvas)またはシルバー・スタッグ(Silver Stag)として知られています)、ニムロド王(メノルトとも呼ばれ、「ニムロッド・ザ・ジャイアント」または「巨大ニムロドノアの「最も邪悪な」息子、カム(伝説、伝説、いくつかの宗教、そしてカムやカームの名前を持つ人と国の歴史的資料がたくさんあり、圧倒的にその意味は否定的です)は、先祖ハンガリー人の全国と共に、バベルの塔の建設を担う巨人でもあります。その建設は、大洪水の事件の201年後に始まったと思われます(ノアの箱舟の聖書の話を参照)ニムロドはエビラトの地に移り、そこで妻エネは双子の兄弟ハンナーとマジヤールを誕生させました。別名マゴール)。父親と息子は、3人全員が驚異的なハンターだったが、ニムロッドは特に典型的な、有能で伝説的なハンターとアーチャーである。 HunsとMagyarsの歴史的に証明された復活弓と矢は、Nimródに帰属しています。 (SimonKézai、Gesta Hungarorum、1282-85)にあるLászlóKúnの個人裁判所司祭。この伝統はAntal Endrey博士によると、ドイツのものと同様、中世のハンガリー・クロニクル20以上にも見られる。 1979年に出版された記事)。Nimród、Hunor、Magorの2人の息子がそれぞれ100人の戦士を抱え、Meotis Marshを通ってWhite Stagに続き、彼らは壮大な動物を見失った。ハンナーとマゴールは、アラン人のダル王の二人の娘と、誘拐された仲間たちを見つけました。ハンガリーの伝説ではHunorとMagyar(別名Magor)がそれぞれHunsとMagyars(ハンガリー人)の祖先であった。 Miholjanecの伝説によれば、ハンガリーのスティーブンVは、テンションの前に「Enchediで生まれた偉大なNimrodの孫、Bendeuciの息子、Attila:神の恵みによってHunsの王、Medes、Goths、Dacians、世界の恐怖、神の惨状を訴えています」
ニムロッドは、フリーメーソンの歴史のいくつかの非常に初期のバージョンで、彼は兄弟姉妹の創設者の一人であったと言われています。フリーメーソンの百科事典によると、古い憲法における工芸の伝説は、Nimrodを石工の創設者の一人と呼んでいます。したがって、ヨーク・ミシシッピ州の第1号で、私たちは次のように読んでいます。「あなたがバベルの宮殿を作ったとき、最初にメイソンが大いに尊敬され、ニンロートと呼ばれたバビロンの王はメイソンであり、メイソンを愛していました。しかし、彼は現在の儀式では考えません。
Lemminkäinenの助手としてFinnish Kalevalaで考えている悪魔Nyyrikkiは、いくつかの研究者や言語学者によってNimrodと関連付けられている[11]。
悪のニムロッドと正しいアブラハム
聖書にはニムロッドとアブラハムの間の会合は言及されていませんが、ユダヤ人とイスラム教の伝統によると、両者の対立が起こったと言われています。いくつかの物語は、善と悪の対立の象徴と見なされる激しい衝突で、そして/または多神教に対する一神教の象徴として、それらを一緒に持っていきます。一方、いくつかのユダヤ人の伝統は、二人の男が会って話し合ったとしか言いません。
K. van der Toornによると、 P. W. van der Horstによると、この伝統はPseudo-Philoの論文で最初に証明されている[12]この物語はタルムードと中世のラビの書物にも見られる。[13]
いくつかのバージョン(Flavius Josephusのように)では、Nimrodは神のものに対する彼の意志を立てる人です。他の人では、彼は自分自身を神と宣言し、その主題によって崇拝されます。時には彼の父親であるセミラミスは、自分の側で女神として崇拝されました。 (Ninusも参照してください。)
星の中の看守はニムロッドと彼の占星術師に、偶像崇拝に終止符を打つアブラハムの差し迫った誕生を伝えます。したがって、ニムロッドはすべての新生児の殺害を命じる。しかし、アブラハムの母親は畑に逃げ出し、秘密裏に誕生する。若い頃、アブラハムは神を認め、彼を礼拝するようになりました。彼はニムロッドと向き合って、彼に偶像礼拝をやめるように顔を合わせると、ニムロッドは彼がステークで燃やすよう命じた。いくつかのバージョンでは、Nimrodは世界で一番大きな焚き火でアブラハムを燃やすために、被験者に木を4年間集めました。しかし、火がついたとき、アブラハムは無傷で歩きます。
いくつかのバージョンでは、ニムロッドはアブラハムに戦いに挑戦します。ニムロッドが巨大な軍隊の頭に現れたとき、アブラハムはニムロッドの軍隊を破壊するガットの軍隊を作ります。いくつかの口座はニートや蚊がニムロッドの脳に入り、彼の心から追い出す(ユダヤ伝統はエルサレムの寺院を破壊するローマ帝のタイタスに割り当てられた神の報復)。
いくつかのバージョンでは、ニムロッドは悔い改め、神を受け入れ、神が拒否する数々の犠牲を提供します(カインのように)。他のバージョンでは、ニムロッドは、アブラハムに譲歩的な贈り物として、いくつかの口座がニムロッドの息子のように描写されている巨大な奴隷エリエザーを与えています。 (聖書はまたエリエゼルをアブラハムのマジョモモと言いますが、彼とニムロッドの間には何の関係もありません)。
さらに他のバージョンでは、ニムロッドは神に対する反乱、あるいはそれを再開しています。確かに、メソポタミアを離れてカナンに定着するアブラハムの決定的な行為は、ニムロッドの復讐からの脱出と解釈されることがあります。アブラハムの誕生の前に、多くの世代のタワーの建造物を正式な場所とみなすアカウント(聖書やジュビリーなど)。しかし、他の人たちでは、ニムロッドがアブラハムとの対決で失敗した後で、後の反乱である。さらに他のバージョンでは、Nimrodはタワーが失敗した後も諦めずに、鳥が駆け抜ける馬車で、天国を直接襲撃しようとします。
その物語は、モーセの誕生(殺害を命じられた助産師を持つ無実の乳児を殺す残酷な王)と、火から無傷で現れたシャドラク、メシャク、アベドネゴの功績から、アブラハムの要素に帰属します。したがって、ニムロッドは、2つの典型的な残酷な迫害の王 - ネブカデネザールとファラオの属性を与えられています。いくつかのユダヤ人の伝統はまた、彼の祖父が彼を殺そうとしたポーランド人と一緒に、ヘロドトスによる誕生をしたキュルスと彼を識別しました。
また、Qur'anには、名前で言及されていない王と、預言者Ibrahim(アラブ人、 "Abraham")との間に対立が見られる。イスラム教徒の解説者は、ニムロッドをユダヤ教の資料に基づいて王に任命します。イブラヒムの王との対決では、前者はアッラー(神)が命を与え死を与える者であると主張する。王は死刑判決を受けた2人の人を連れて来る。彼は1つを解放し、他の人を殺す、彼はまた生と死をもたらす点を作ることに貧しい試みとして。イブラヒムは、アッラーが太陽を東から持ち上げることを述べて、彼に反論します。王はそれから困惑し、怒ります。
ニムロッドは、最終的に悔い改めているかどうかにかかわらず、ユダヤ人とイスラム教の伝統に象徴的な悪人、偶像崇拝者と独裁者の象徴であった。現在までのラビの書物では、彼はほとんど常に「ニムロッド・ザ・イヴル」と呼ばれています(ヘブライ語:נמרודהרשע)。
ニムロッドは、Baha'i宗教の主要な神学的研究であるKitáb-i-Íqánを含む、バハイの聖典のいくつかの場所で名前が挙げられています。そこでは、ニムロッドが「夢を夢見て」、彼の執事が天国の新しい星の誕生を意味すると解釈したと言われています。その後、「アブラハムの到来」を宣言する土地にヘルダルが現れたと言われています。バム(バハイ信仰の牧師)の初期の書物の1つにニムロッドも言及されています。神の力の例を挙げて、彼は次のように尋ねる。「過去に、アブラハムはニムロドの力を勝ち抜くために、無慈悲に見えるにもかかわらず、アブラハムに起きたことはありませんか?
アブラハムがニムロッドと対立したという話は、学術論文や宗教論文の枠内にとどまらず、また著名な文化にも影響を与えました。注目すべき例は、カスティーリャ王アルフォンソ王Xの治世の間に明らかに書かれた、ラディーノで最も有名なフォークソングの一つである「クンド・エル・レイ・ニムロッド」(「ニムロッド王」)である。 「ニムロッド王が畑に出たとき/天と星を見たとき/ユダヤ人の四分の一の聖なる光/彼の父アブラハムが生まれようとしていたときの印」歌は残忍なニムロッドと救い主アブラハムの奇跡的な誕生と行為によってもたらされた迫害の詩的な記述を与える。 (完全な原文と英訳はLadino Wikipediaの記事に掲載されています)
イスラム語の物語
イスラムの物語によれば、アブラハムはニムロッドと一連の話し合いをしているようです。[19]クルアーンは、「神が王国を授けたので(すなわち、彼は誇りに思っていたので)、アブラハムと主張している人を考えなかったのですか?」[20]アブラハムはこう言います。死を引き起こす。王は答えます、 "私は生命を与え死をもたらす" [20]。彼は一方を解放し、他方を非難する[21]。それでアブラハムは、「確かに、神は東から太陽を上げ、西から持ち上げる」と言いました。[20]これによって王は彼を追い払い、レバントに向かいました。クルアーンではニムロッド氏の名前は明記されていないが、イスラム教徒が「キング」と言及している。ムジャヒッドによれば、「4人が地球、東と西、2人の信者と2人の不信者を支配した.2人の信者はソロモンとダル・カルナインであり、2人の信者はネブカドネザルとニムロッドであった。 "[23]
ミドラシュラバ版のテキスト
次のバージョンのアブラハム対ニムロッドの対立は、ユダヤ人の聖書の主張の主な編集物であるミッドラッシュラバに現れます。これが現れる創世記に関わる部分(第38章、第13章)は、6世紀から現在までに考えられています。(...)彼は[アブラハム]をニムロッドに渡した。 [Nimrod]は彼に言った:「火を崇拝しなさい!アブラハムは彼に言った:「私は水を崇拝して火を消すか?ニムロッドは彼に言った:水を礼拝する! [アブラハムは]彼に言った:もしそうなら、私は水を運ぶ雲を崇拝するでしょうか? [ニムロッド]は彼に言った:雲を崇拝する! [アブラハムは]彼に言った:もしそうなら、私は雲を散らす風を崇拝するでしょうか? [Nimrod]彼に言った:風を礼拝する! [アブラハムは]彼に言った:そして私たちは風に耐える人間を崇拝するでしょうか?あなたは言葉に言葉を積み重ね、私は火のなかに伏します。私はあなたを捨てて、あなたが弓をあげる者に来て、それからあなたを救いましょう!
ハラン[アブラハムの兄弟]がそこに立っていた。彼は[自分自身に]言った。私は何をするだろうか?アブラハムが勝利したら、私は言うでしょう:「私はアブラハムの信者です」とニムロートが勝った場合、「私はニムロッドの信者です」と言うでしょう。アブラハムが炉の中に入って生き残った時、ハランは尋ねられました。「あなたは誰ですか?彼は答えました。「私はアブラハムです!」彼らは彼を連れて炉に投げ入れ、腹が開き、彼は亡くなり、彼の父テラッハを前にしていた。
[聖書、創世記11:28は、ハランがテラハを前にしていると述べていますが、詳細は記されていません)。
以上、Nimrod - Wikipedia から要点を抜き出してグーグル翻訳した結果でした。
ニムロドは、アブラハム側からすれば悪の存在でした。旧約聖書を中心として語られる場合、ことさらにニムロドを悪人と決めつける傾向にあるわけですが。
ニムロドの側からすれば、ニムロドこそが正義だったんですね。このことは、イラクの近隣の諸民族の伝承としても残っていたようです。いろいろ知らないことが多すぎました。
正義と悪は、立場によって変わるもの。
日本人からすれば正しい行いでも、中国人から見れば悪いことだと認識されてしまうみたいな。右翼と左翼の対立みたいな。
ウィキペディアの英語版からわかったニムロドの特徴
上記のウィキペディア英語版からまとめると、ニムロドはこんなふうな人だった。
・ニムロドの系譜は、ノア、ハム、クシュ、ニムロド
・ニムロドはバベルの塔の建設者
・ニムロドは悪い人としても正義の人としても記録されている
・ニムロドは神に認められた王だった
・ニムロドはアブラハムと対立した
・ニムロドは神と対立したのでユダヤ・キリスト教では悪魔と形容される
・ニムロドはシュメールの無数の町を建設し国土を繁栄させた王さま
・ニムロドはシュメール、アッシリア、バビロニアなどいずれかの国王
・ニムロドは世界で初めて金の王冠を頭に付けた
・ニムロドはアダムとイブの衣服を父親のクシュから継承した
・ニムロドはハンガリー人の祖先の建国者
・ニムロドは巨人だった
ニムロドの正体は、シュメールからバビロニアの複数の王のイメージを習合されている王さまみたいな感じなのですね。具体的に誰かという疑問については、複数の仮説が合ってどれかというのは決められない感じでした。
だから日本の記紀神話のカグツチと同じですね。カグツチにも複数の別名があり、複数の神や人物を習合している様子が見られるので。日本神話では、イザナギを絶対的な神として描く必要があり、ニムロドが入ってるカグツチを徹底した悪として描く必要があったのかと。
順調ならば4月に引っ越して、ヒキコモリ生活を始めようというところ。
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日本神話の全てが、中東やヨーロッパ神話の移植とは思わないです。日本固有の神話が、日本列島に色々あるはず。
でも確実に、日本神話の中にはアッチの神話が入っているんですよ。
だから中東神話を、中東からの視点じゃなくて日本視点で見れてしまう。日本神話を解き明かしていくことで、中東や日本の歴史が、多角度的に鮮明に見えてくる、というわけなのではないかと。
この記事が執筆されたタイミングがアレですが、たまたまであって悪意は無いので。
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○いつも助かっております
1の続き。
バベルの塔の建設者ニムロドは、日本神話の中にも入り込んでいたという話。
これがホントだとすると、おそらく旧約聖書の叡智が、日本へもたらされてることが確定できる要素のひとつになります。「日本書紀」編纂以前の古墳時代~飛鳥時代には存在したんですかね。
バベルの塔の話を要約すると、
(1)・ノアの方舟の後、バベルの塔の建設のために人が集まった。建設者代表は「火の男ニムロド」。
(2)・煉瓦をつくろう。火で焼こう。石の代わりに煉瓦、漆喰の代わりにアスファルトで建設しはじめた。
(3)・塔の先が天に届くほど高い。
(4)・神がバベルの塔を知って不快に思い、言葉を散らして会話できないようにした(塔の崩壊)。
(A)・ミドラージュによれば、火の男ニムロドが、アブラハムの弟ハランを焼き殺した(殺害状況)。
(B)・ということで、ニムロドは神とアブラハムの敵として認識された(敵対)。
これが実は日本神話の中にもあったんですよね。
え?こんな話は日本神話に無い?いえ、ありました。
それはどこかというと、「火の軻遇突智神(かぐつち)」のシーン。
カグツチとは、記紀神話における火の神。『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ;加具土命)と表記される。また、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記される。
神話の記述
神産みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれた神である。火の神であったために、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまう。その後、怒ったイザナギに十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で殺された。
カグツチには、ニムロドが習合されてたのですよ。どういうことなのかを解説。
まずカグツチの名前から見てみる。
カグツチの名前
・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)古事記
・火産霊(ほむすび)日本書紀
こんなにあり。
ぶっちゃけ神の別名が多すぎる場合、1人の神に、複数の違う出身の神を習合してるのが明らかではないかと。これが日本神話の構造の一つ。
カグツチの場合も、複数の別の火神が習合しているんではないかと。カグツチを構成する神の1人が、「旧約聖書」のバベルと火の象徴ニムロドということです。
でも上記の名前リストに、ニムロドっぽい名前がない、おかしい。
ではやっぱり漢字の一字一字に、バベルの塔とニムロドの話を込めているのか。と思って「学研漢和大字典」で調べました。
・ 軻遇突智の漢字の意味と解釈
軻 ①むりに押し込んで車の軸をはめる。車がきしるさま。②轗軻とは事の思うように運ばないさま。③軻峨とはごつごつして高いさま。
バベルの塔は「無理に建てたが思うようにいかなかった象徴」であり、「ごつごつして高い」が当てはまっていますね。
遇 ①あう AとBがひょっこりあう。②相手と関係しあう。[解字]逢は両方が近づいて頂点で出あうこと。(逢と同系)
バベルの塔では「大勢が出会って建設を始めた」、「頂点で神と出会ったこと」が当てはまってるようですね。
突 ①つく つき出る。平面から急につき出す。ある部分だけ高くつき出たさま。②ぽんとつき出しているさま。③つき出たもの「煙突」
バベルの塔は「突き出た塔」なのでそのまんま。
智 ①さとい 物事をずばりと会得したり、あてたりできる。知恵や術にすぐれている。
これは何かと考えたのですが、「ニムロドがバベルの塔を立てる知恵や術にすぐれている」を言うのかと。
全体としてみてバベルの塔のことを表す漢字ばかり並べられていたんですね。
8万字以上あるという漢字のなかで、バベルの塔の特徴に合う漢字だけが4文字並ぶのは、果たして偶然の一致なのですかね。
・迦具土の漢字の意味と解釈
火之迦具土
火 ①ひ 物を燃やして光や熱を発するひ。⑥火のような怒り。かんしゃく⑦火で焼いたり煮たりすること。[解字]もと𤈦(やけてなくなる)毀(形がなくなる)などと同系のことば。
ニムロドは「火のように怒りハランを焼き殺した」のであり「バベルの塔は形がなくなった」のであるので、あっているのですね。ここまで一致すると、もしかすると「火」という漢字自体、バベルの塔を表したのかもしれませんね。
之 接続詞。
迦 ①行きあう。であう。一説に解脱するさま。【迦・膩色・迦王】西暦2世紀頃、インド北方および中央アジアの一部を領有した王。
バベルの塔では「人々が出会って建設をはじめ」、「神と出会った」んですよね。インド北方の王の名前を出すことで、舞台がユーラシア大陸の西方だったことを印象づけているようです。
具 ①そなわる・そなえる おぜんだてがそろう。⑤ともに
バベルの塔は、「崩壊のお膳立てがそろった場所」なのですね。とするとバベルの塔の崩壊は、最初から決まってたんですね。
土 ①つち ⑦五行の一つ。方角では中央、色では黄色、時では夏の土用、味では甘、内臓では肝に当てる。⑧星の名、土星。⑩土盛りをして土地の神をまつったもの。⑪はかる[解字]土を盛った姿を描いた象形文字。
バベルの塔は中央に位置し、黄色い土色であり、夏の時期に完成したんですかね。土星というのは英語で「サタン」のことです。バベルの塔の建設者ニムロドが、欧州ではサタンと呼ばれていたことと、奇妙に一致してますね。「土」という漢字もバベルの塔を元にしている可能性がありそう。
という風にここでも、バベルの塔に関係する漢字が使われていました。
カグツチを斬った武器「天之尾バベルの剣」
イザナギがカグツチを斬ったのですが、「古事記」を読むとその時の剣の名称が出ていました。「天之尾羽張剣(あめのおはばりのつるぎ」。
「羽張(ハバリ)」って羽根を張った剣みたいですが、音だけ取ればバベルですね。
羽張 ha-ba-ri
バベルba-be-l
ニムロドが集合されてるカグツチ神。彼を斬った剣に、バベルの塔の名前をなづけていたのですね 。バベルの塔の場面とわかりやすいように。天はシュメールのアン神や、エジプトのアメン神のこと。
そしてこの剣は別名を「伊都之尾羽張剣(いつのおはばりのつるぎ」といったのですね。アブラハムの後の世代がイスラエルを建国したので、この伊都とはイスラエルのイス(伊都)のことなのではないかと。
ココまで来たら、バベルの塔の物語がカグツチの物語と、整合しているんではないかと分かってきますね。では最後に両者を比較。
1・舟のあとに塔
バベル1・ノアの方舟の後のこと。バベルの塔の建設のために人が集まった。建設者代表は「火の男ニムロド」。
カグツチ1・イザナギがヒルコを葦舟で流し、あるいは天の鳥船を生んだ後のこと。バベルの塔の意味を持つ、カグツチが登場。
2・塔の材料の提示
バベル2・煉瓦をつくろう。火で焼こう。石の代わりに煉瓦、漆喰の代わりにアスファルトで建設しはじめた。ちなみにバベルの塔では、上まで水を汲み上げた(塔の材料の提示)
カグツチ2・イザナミがカグツチを生むと、イザナミは病に陥った。そのときに金山毘古神・金山比売神(金・鉄)、波迩夜須毘古神、波迩夜須比売神(土)、ミツハノメノ神(水神)、ワクムスヒ神(瓶神)を生んだ。(塔の材料の提示)
3・完成した塔の様子
バベル3・塔の先が天に届くほど高い。(完成した塔の様子)
カグツチ3・迦具土の「土」は「土を盛る」。軻遇突智の「軻」は高い、「突」は「ぽんと突き出たさま」。イザナギが持っていた剣は別名「十拳剣」で、長い剣の意味。「長い剣=高い塔」を示唆する。(完成した塔の様子)
4・塔の崩壊と部族の拡散
バベル4・神がバベルの塔を知って不快に思い、言葉を散らして会話できないようにした。バベルの塔から、世界に民族と言語が散らばった。(塔の崩壊と部族の拡散)。
カグツチ4・イザナギはカグツチを不快に思い、体を3段(あるいは5段)に斬って殺した。カグツチ神の体が散らばり、様々な日本の神が生まれた。(塔の崩壊と部族の拡散)
ミドラーシュの要素A・殺害状況
バベルA・火の男ニムロドが、アブラハムの弟ハランを焼き殺した(殺害状況)
カグツチA・火の神カグツチが、イザナギの妻イザナミを焼き殺した(殺害状況)
ミドラーシュの要素B・敵対
バベルB・ニムロドは神とアブラハムの敵対者として描かれた
まぁ、こんなふうに、ほとんど完全に一致してたんですよね。世界の民がひとつから多数に分かれていく瞬間を描いた、バベルの塔・ニムロドと、カグツチの神話の内容は。
誰も気づかなかったのは、名前が違っていることや、表現方法が異なっていたせい。そして「旧約聖書」と記紀神話に共通する要素なんかあるはずない、という先入観のせいでしょうかね。
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世界中の似通った神話の起源については、大きく2つの説があるそうな。
1・世界の一点から生まれた神話が、世界全体に伝播したという単一起源の考え方。
1・世界各地で別々の時代に独自に誕生し、偶然似通ったという考え方。
比較神話学の専門用語で、なんていうのか忘れた。。
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○いつも助かっております
固有じゃなかった
前者の場合で言えば、日本神話は縄文人や近隣の古代中国のみならず、西のシュメール、ギリシャ、東欧、などの神話の流れを受け継いでいるので、西側の神話と一致していて当然のことなのではないかと。
「神話から歴史へ(1)日本の歴史」井上光貞著(初版1973年)によると、たとえば
天の岩戸神話の系統を学問的に裏付けたのは、ドイツ生まれのアメリカの東洋学者のメンヘン・ヘルフェンの「日本─カリフォルニア」であった。彼は「日神が洞窟や箱にかくれ、これをおびきだすという主題の神話は、西はインドのアッサム、東ははるか太平洋のかなたカリフォルニアにおよんでいる」と述べている。」p70
アジア・中東に分布している日本と共通の神話
・天の岩戸神話 太陽神がかくれてしまったので、様々な方法を駆使しておびき出す
・ヤマタノオロチ神話(ペルセウス・アンドロメダ型神話) 大蛇などの怪物を撃退して生贄を救う英雄譚
・天孫降臨神話 王の祖先が山の上に降臨する
・木花咲耶姫型神話 石と食べ物、どちらか1つを選んで、その後の運命が決定する
・黄泉神話 地上の神が地底世界へもぐって、神と一悶着あってから脱出
こんなふうに。人によれば「日本固有」と決めつけている日本神話は、じつはアジアや世界と共通した骨組みだったとか。
ということで、「旧約聖書」「日本書紀」の冒頭部分のほうを見てみる。
1神による創造の七日間 最初の神と神代七代 (7で一致)
というふうに、順番は違えども、だいたい当てはまるんですよ。バベルの塔の物語に対応するものは、イザナギとイザナミが生み出した「天御柱」だと考えていたのですが、どうもそれだけじゃなかったようです。
バベルの塔の物語から、ちょっとばかり確認してみる。
バベルの塔の話
聖書の記述
バベルの塔の物語は旧約聖書の「創世記」11章にあらわれる。そこで語られるのは下記のような記述である。位置的にはノアの物語のあとでアブラハムの物語の前に置かれている。バベルの塔の話
全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアルの地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。「創世記」11章1-9節
つぎにバベルの塔の建設者について。
ニムロド
ニムロド(ヘブライ語: נמרוד)は旧約聖書の登場人物で、『創世記』の10章においてクシュの息子として紹介されている。クシュの父はハム、その父はノアである。ミドラージュにおけるニムロド
僕(しもべ)たちはアブラハムを捕らえるとニムロドに引き渡した。ニムロドはアブラハムに命じた。「火を崇拝せよ!」。するとアブラハムは答えた。「わたしは水を崇拝します。火は水に消されるではありませんか。」ニムロドはまた命じた。「ならば水を崇拝せよ!」アブラハムは答えた。「わたしは雲を崇拝します。水は雲によって運ばれるではないですか。」ニムロドは命じた。「雲を崇拝せよ!」アブラハムは答えた。「では、わたしは風を崇拝します。雲は風によって散らされるではありませんか」。ニムロドはなおも命じた。「風を崇拝せよ!」アブハラムは答えた。「ならば人間を崇拝します。人間ならば風に耐えられましょう。」するとニムロドは言った。「おまえは同じ言葉を繰り返してばかりだ。見よ、炎を崇拝するこのわたしが、おまえを炎の中に投げ入れてくれるわ。おまえが神を崇拝しているのならば、神がおまえを炎の中から救い出してくれよう。」ところで、その場にはアブラハムの弟ハランも同席していた。彼は思った。「わたしはどうすればいいのか? もしアブラハムが勝利したならば、『わたしはアブラハムの僕です』と言おう。もしニムロドが勝利したならば、『わたしはニムロドの僕です』と言おう。」アブラハムは燃えさかる炉の中に投げ入れられたが無事に救出された。するとニムロドはハランに聞いた。「おまえは誰の僕か?」ハランは答えた。「わたしはアブラハムの僕です。」ニムロドの僕たちはすぐさまハランを捕らえると炎の中に投げ入れた。彼が炎から出てきたときには腸までもが焼け焦げていた。彼は同席していた父テラの目の前で死んだ。それゆえ、『創世記』(11章28節)には「ハランは父テラの前で死んだ」と書かれているのである。
このニムロドという人、どうもサタンと同一視されるらしく、12月25日にサンタクロースが現れるのは、サンタ=サタン=ニムロドの誕生を祝うためという話があり。そういえばいま世界では悪魔崇拝のほうが力が強いらしいですが。どうりで気持ち悪い世界になっていると思った。
知恵の実を食べたアダムより、知恵の実を与えた蛇(悪魔)こそが人知を超越した存在であり崇拝対象だという信仰があるとか。
ちなみに俺は巳年で水瓶座で1月30日生まれで、運命的に蛇に関係していましたが、悪魔崇拝などはしたことがないです。
ただ、日本の神には古来より悪魔的存在が入り込んでいるようなので、神のことを考える行動が、無意識のうちに悪魔を同時に捉えることにつながってるかもですが・・・。
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さて、ニムロドはひとまず置いておいて、日本語の「塔」について考えてみる。
ちなみに「天御柱」については以下の記事で、
・淤能碁呂島には沈んだアトランティスの情報が含まれるのかもです
過去記事を読み直してみると、適当なところはあったんですが、記紀神話にはバベルの塔の存在がたしかにちらっと出ているのではないかという内容。
ところで。
日本語でTowerのことを「塔(とう)」。これって実は呉音・漢音の音読みで、中国発音なのですよね。秦の時代は「学研漢和大字典」によれば、塔:tapといったらしい。
辞書を引いても、「塔」の大和言葉(訓読み)が存在しないようでした。これは日本の単純な漢字の中では珍しい感じ。つまり上古の倭では塔のことを、塔と呼んでなかったことを意味しますね。おそらく弥生時代以前、塔がなかったのでは。
その代わり、昔の日本では「やぐら(楼・櫓)」や「たかどの(高殿)」と言っていたのではないかと。
縄文時代にも櫓はあったようですが、木の櫓であって、石を積んだ櫓は発見されてませんね。
このやぐらですが、中東の塔をあらわす言葉に似ていました。
ジグラとヤグラ。ちょっと似てる。
で、こうした言葉を探ってみると、どうやら日本語の中には「バベルの塔」の存在が封印されているのではないかと。
・燎
漢・呉 リョウ
1・かがりび・にわび
2・やく
4・あぶる
[解字]寮は柴や骨をやぐらの形に組み、下から火でもやすさま。(中略)僚(列をなす仲間)と同系のことば。
>「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った
というふうに、仲間で火を起こして建設を始めたんですよね。
そしてバベルの塔を建設したニムロドは
>「火を崇拝せよ!」
>「見よ、炎を崇拝するこのわたしが、おまえを炎の中に投げ入れてくれるわ。おまえが神を崇拝しているのならば、神がおまえを炎の中から救い出してくれよう。」
と言っているので、ニムロドが火を象徴とする人物で、「火の神」として記録されていておかしくないですね。
燎という字を見れば、バベルの塔との共通点がこんなに。
a・燎(あぶる)は火を用いた行動をあらわす。ニムロドは火を象徴。
b・あぶる(aburu)はバベル(babel)やアブラハム(abraham)を包括する。
あぶる aburu
バベル b-abel
アブラハム abra-hamc・「寮は柴や骨をやぐらの形に組み」で、塔を形づくっている。
d・バベルの塔は大勢の仲間で建てたが、燎にも同じく仲間の意味がある。
e・塔とはやぐらであり、ジッグラトに似てる(やぐら、じぐら)
というふうに、日本語のあぶるを当てた漢字の「燎(あぶる)」は、バベルの塔の要素をすべて備えているのでした。まあ、これは偶然でもいいです。
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これ例外にも、明確にニムロドの姿を発見してしまいました。これは過去に指摘がなかったことですが。では記紀神話のどこに、バベルの塔建設者のニムロドがいるか?という話へ。
2に続く
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近年は「言葉に穢れを加える風潮」目立ってますね。
たぶん俺が生まれる前から、すでにあったんでは。呪詛ですねこれ。
・・・・・・・・・・・・・・・
○いつも助かっております
古代から
こうした言葉に穢れを加えるという呪詛の行為は、現代日本人同様に、古代の中国人もやっていたことでした。
東夷・・・夷は背が低い、身分も低い未開人という意味
白狄・・・狄は追われて逃げる。逃げる犬
匈奴・・・奴~は奴隷の奴~
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漢族は周辺異民族に下劣で下等な意味がこもった漢字を使ったんですが。呪詛的な用法ですね。まあ漢字自体が意味を封じ込めた呪詛ですが。この字を認識した時点で、瞬時に見下す習慣が付けられてしまうということなんですが。まあ今もやってる人いますね。漢字じゃなくてもjapとかchonとかいう蔑称も、呪詛の類ですよねこれ。俺もいろいろ呪詛かけられてるみたいです。
沃沮のことを考えてたら、穢れの話になってしまった。
扶余の別種夫祖(沃沮)
夫祖(沃沮)は日本が弥生時代後期の頃、ユーラシア大陸東部のあたりにあった国。
住人は扶余の別種だったとか。つまり言語も風習も扶余だったんですね。 沃沮は「肥沃を邪魔する」という意味になっていたり、なんか日本語の汚い意味の言葉が入っていたりしますが。
ちなみに扶余語と倭語が似てる件はこちら。
沃沮は元々は、「夫祖」といって、日本の異名である「扶桑」とそっくりだったんですよ。2つの理由があって、日本と扶余・沃沮は、無関係ではないですね。
これはともかく、神功皇后って応神天皇の母ですが、なにか出自が夫祖に関係しているのではないかと思うところがあり。その辺を考えてみました。
神功皇后と家系
神功皇后というのは、諱または諡号を「息長帯比売命(気長足姫尊)」といって、「おきながたらしひめのみこと」と言いました。
定説上では、「おきなが」という名に「息長、気長」という漢字を当てたということなんですが。
神功皇后といえば、男装をして新羅に2度出兵したり、百済から七支刀を貰ったりと存在感がやたらあり、奈良県奈良市の五社神古墳なんかでも知られた存在。ちなみに七支刀の「泰■四年」は「太和4年」というふうに当て字したもので、西暦369年説が有力。五社神古墳が4世紀末の年代なので良く合っているよう。
神功皇后の「おきなが」ってなんだろう?と考えていました。
息が長い、気が長い。たしかに神功皇后は通常に2倍も妊娠期間が長かったとか伝わっているので、それが関係しているのかと。息が長い。そういえば近年は肺活量を測ってないな。
そんなおきながですが、調べてみたところ、これは神功皇后だけに用いられているわけではないのでした。
息長を持つ人物
・神功皇后の弟「息長日子王」
というふうに3人いました。彼らを息長家とでも言いましょう。
定説によれば、神功皇后の父親の名「息長宿禰王(気長宿禰王)」は、開化天皇の玄孫だといいますね。
こういうこと。従来の定説では、欠史八代開化天皇は実在せず。または日本列島の奈良県に居たということになってますが。
息長は沃沮のことだった
神功皇后や息長宿禰王の息長とは、じつは「沃沮」のことなのではないかと。思い付いたのは何年前のことだったか。これはたぶん歴史上の事実だと思いますけど。
沃沮というのは日本語読みと大陸読みではちがうのですが。
古代日本 沃-沮 よくーそ(呉音・漢音)
上古中国 沃-沮 おくーちょ
これと「息長」を比較検討してみる。
上古中国 沃-沮 おくーちょ
古代日本 息-長 おきーちょう(訓+音)
そっくりな音が出て来るのでした。
つまり息長氏が夫祖(沃沮)の出身であることを、名前に込めている
ということになるんですよね。
そうすると以下のことが関係してくる。
電子書籍の拙著「日本の地名の~(下)」では、以下のように書いています。
・開化天皇の諡号の「大日日(大毘毘)」とは、「弁韓の首都・伴跛(ハヘ)」を表している。
これは別に適当なことを言ってるわけでない。
・開化天皇の妃の名前をみても、姥津媛(ははつひめ)となっていて、伴跛(ハヘ)を含んでいた。別名を見れば意祁都比売命。
姥津媛(伴跛つ姫)「つ」は接続詞(の)と同じ。
意祁都比売(おけつ姫→おくつ姫→おくちぇ姫→息長姫→沃沮姫)
ここにも沃沮系の人がいました。この姥津媛というかたは、和迩氏だそうで。つまり和迩氏も、朝鮮半島に拠点を持ってたことが分かってきますが。
つまり欠史八代とは大陸にいました。
関連記事はこちら
開化天皇以前の天皇の諡号は、それぞれ東夷の国々の国名に当てはまってたのでした。そうすると開化天皇の玄孫の息長宿禰王が、朝鮮半島の夫祖(沃沮)に居たとして、決しておかしくないことに。朝鮮半島は南北にわずか700キロほどで、日本で言うと九州から中部地方くらいの距離感だったので無理がない。
つまりこういうことになる。
・姥津媛(意祁都比売)、沃沮(意祁都)出身だが、弁韓の伴跛(姥)に来た人。
・息子(娘)の崇神天皇 御間城(任那)入彦五十瓊(委奴)殖天皇(任那から委奴へ)
・息子の彦坐王 坐というのは筑紫の座郡(朝倉郡)のことを言うが、朝鮮半島の倭人領域の地名を元にしているか
・玄孫の息長宿禰王 弁韓~沃沮にいた。沃沮から倭へ渡ってきた人。
息長宿禰王が沃沮出身であることで、開化天皇が朝鮮半島の倭の拠点にいたことが補強されるのでした。
こんなブログあり
韓国考古学による百済建国以前の韓半島古代史と倭/息長氏結語 ( 人類学と考古学 ) - 民族学伝承ひろいあげ辞典 - Yahoo!ブログ
このブログでは息長氏を朝鮮半島系の「はた族」(ハタ氏?)としている。沃沮とは言っていないが、こんかいの記事と整合していますね。
そして神功皇后が夫祖(沃沮)出身、これの証拠は、他にもあったんですよ。それはまたいずれ。
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日本の元号、それはミステリー。
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元号について
この元号ですが、いまみたいに「天皇一代にひとつ」となっているのは明治時代以降のことでした。江戸時代以前の元号は、「1人の天皇に複数」ということも通常のことだったようです。
たとえば江戸時代最後の天皇だった孝明天皇の頃、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応と6つもの元号が使われていたりしますね。
何か大きな出来事が起きるたび、1人の天皇の時代に、元号は幾度も変更されていたということ。
だからぶっちゃけ天皇陛下が「明日から元号変えますよ」 なんて言って変えることは、本来の古来よりの元号の性格からすれば、あっても許されることなんですが。いまは慣例的に、一代に一つで決まってるとか。
でも天皇陛下が上皇になると、事実上で「一代で元号複数」になるわけですが。という意味では革命みたいな感じですよね。
明治時代以降の元号
ここからは、あくまでも個人的な妄想なので、本気で捉えてもらっても困りますが、自由自在に東西南北へ受け流したり、ビフィズス菌と一緒におなかに吸収しても結構です。
この元号ですが、明治時代以前と以降では、どうも毛色が違っている、そんなふうな感じを受けてしまいました。
それは単純に言えば、明治時代以降は「キリスト教的ななにか」を含んでいるような気がしてならないのですよね。
・平成
平成とは1989年から使われてる元号。「平らに成る」という意味が込められていて、平和を願った元号だとか。世間的にはそんなふうに言われてるだろう。
でも世間に悪意をぶつけられ計画的にいじめられ過ぎて、ひねくれ過ぎた俺の妄想によれば、、これだけという訳には行かなかった。
ツイッターのメモ
というふうに妄想してみたんですが。
平成=HEI SEI
これを逆にすると
成平=IES IEH
IES(イエス)IEH(ヤー(神)
というふうに、イエス・キリストと神の名前が呼ばれているのだった。なんでだろう。偶然なのだろうか。ほかも見てみよう。
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・昭和
昭和というのは1926年から使われてる。
「昭和」の由来は、四書五経の一つ書経尭典の「百姓昭明、協和萬邦」(百姓(ひゃくせい)昭明にして、萬邦(ばんぽう)を協和す)による。漢学者・吉田増蔵の考案。
「和やかに照らす(明るくする)」という意味が込められていて、要するに仲良しこよし感がいっぱいだ。世間的には昭和時代の人なら知ってるかもしれない。
でも世間から寄ってたかってフルボッコにされてきた俺としては、普通に解釈することは不可能だった。
昭和 SHOUWA
逆さまにしても別に何も出てこないが、
昭を分解すると=日召
日召 HISHO →ISH O イーシュ王(イエス王)
という風にナザレの王イエスの名が入っているのだった。古代には場所によってはイーシェと呼ばれたらしい。
日召和なら、「日本のメシワ(召和)」でメシアっぽい。
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・大正
大正というのは1912年から使われた元号。
「大正」の由来は『易経』彖伝・臨卦の「大亨以正、天之道也」(大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)から。
単純にいえば「大いに正す」ことを意味していて正義感たっぷりですだ。世間的にはそれでいいのかもしれない。
だけど人々の悪意と鬱憤の全てを受け止めすぎて普通の発想じゃおさまらなくなった俺としては、他の意味を探るしか無かったですだ・・・。
大正 TAISHO
これを分解してみると、
TA ISH OH ザ・イーシュ・王
というふうにこれもイエスの名前が入ってるのだった。
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・明治
明治は1868年から使われた元号。
『易経』の「聖人南面而聴天下、嚮明而治」より。
「明るく治める」という意味でポジティブシンキングが感じられる。世間的にはこれ以上の意味は不要なのかもしれない。
しかしネガティブを積み重ねてきた俺としては、ポジティブだけではいられなかったんだ。
明治 MEIJI
逆さまにすると
治明 IJIEM イジェム
Jは「エ(イェ)音」と解釈するとイエイエムで「イエ」が入っている。
明治時代以前、日本語の濁音は省略して表記することは通常だった。
たとえば春日部は「かすかへ」、「越谷は「こしかや」みたいな感じ。
すると明治は「めいし」なのであり、
治明 イシェム イシェ
MEISI MEIISI ISI(イーシ)
ということで、どうしてもイエスが入っているのだった。
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1989年の改元時の最終候補から見る
ちなみにこの解釈が俺の中で正解であることを示す要素としては、1989年の「平成元号の次点」となっていた最終候補名を見ても明らかなことでした。
・修文
当時の新元号の候補だった二文字。
修文 SHU BUN
修 SHU⇔UHS ウーシュ
これだと良く分からないが
亻(ニンベン)+修(SHU)
なので「イSHU」となってイーシュ(イエス)の名前が含まれていた。
・正化
当時の新元号の候補だった二文字。
正化 SEI KA
化正 AK IES
IES=イエスがそのまんま入っていた。
このほか知られざる候補
・文思
文思 BUN SHI
逆にして思文 IHS NUB
ISH=イーシュ
・天章
天章 TEN SHO
OHSでオーシュだとよくわからないが、
天章 AME AKIRA
とすると キリストのKIRが含まれている
・光昭
光昭 KOSHO
日召とするなら、召=メシアの「メシ」が含まれるのであった。
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こんな記事があった。
「新元号」を予言研究家が徹底予想! 「最有力12パターン」を公開、「●成」で決まりか!?
なんか未来人だとか専門家によると、「成」は入るとか言ってる。すると
・◯成
成 SEI IES
「セイ イエス・・・」
もうひとつ
・安始
新元号は、安始になる可能性が根強いとか。なぜかは知らないけど、そういう意向がどこから出てるのか。
安始 ANSHI IHSNA
IHS。イース。やはりそういうことだった。
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これが偶然かどうか確かめる
これが偶然じゃないことは、以下の調査でも分かるかもしれない。
イエスはYes、Yeshua、IisusというふうにSを基礎の音とするので、S(さ行のシ・ス)がとりあえず入っていることが重要っぽい。だから歴代元号にどれだけSが入っているか、その割合などを調べてみた。
さしすせその全てを調べてみた。するとこうなった。明らかに近代の明治・大正・昭和・平成の時代は、Sの割合が高い。大正・昭和・平成はSが3連続で入っているのだが、日本の長い歴史で元号に3連続Sが入ったのはこの時代だけだった。2連続すら珍しいことだった。
だから明治時代以降にイエスっぽい名を組み込んだことは、偶然じゃないのかもしれない。すると何のためにこれを入れたのか?という疑問が出てくるんですが。これの理由は、2ちゃんねるのオカルト板で見つかりますが、「日本での救世主の再臨」とかなんとかに関係していそうです。北斗の拳。
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日本の偉い人はキリスト教を含むブレンド宗教だから元号もキリスト教的なものになってる
なぜ明治時代以降の元号が、こんなことになってるのか。イエス・キリストを含んでいるのか。その答えを求めてみたいです。これも俺の妄想なんですが。
まず事実を前提とすると、日本人がいろんな宗教をブレンドしてる民族なことは、誰でも知っていますよ。
「日本国民は事実上ブレンド宗教を受け入れている状態」なのですよ。
・花祭り(釈迦誕生祭)、お盆、灯篭流し、葬式などは仏教の行事。
・お盆はもともと盂蘭盆会、火祭りなどはゾロアスター教の行事。
・初詣、七五三、ひな祭り、お神輿祭りは神道の行事。
・バレンタインデー、ハロウィン、クリスマスなどはキリスト教の行事。
これは多数の宗教を受け入れているアメリカ人とも違いますよね。アメリカには中国人やインド人が多いにしても、中国やインドの行事を国を上げてやるなんてことないですし。
なぜ日本はこうなったかというと、それは「日本の上層部がブレンド宗教だから」、その意向と意思が国民にも反映された結果なのでしょう。
ただでさえ古墳時代の昔から、長い間神道と仏教がブレンドされてきた日本ですが。
これに加えて蘇民将来、祇園祭、ほか日本の祭りは、ユダヤ教の祭りが含まれるんじゃないかっていう仮説が、まことしやかに囁かれていたり。
ということで、偉い人は人生の根幹にも、政治的なものの中にも、キリスト教やユダヤ教をブレンドして取り入れているんじゃないかという疑問は、世間からも汲み取ることができたりします。
庶民の行事にやたらキリスト教の行事が多くなったり、アニメではキリスト教やユダヤ教的な、「ヨハネの黙示録」や「生命の樹」を題材にしたものが頻繁に出てきたりということなんですかね。エヴァンナントカみたいなのが。
日本は宗教の自由の国ですが、多くの政治家が、キリスト教系の信仰を持っているのではないかという話は、よくネットで目にしますね。
そして明治維新を起こした維新志士といわれる人たち。この人達は当時のキリスト教の戦争屋の欧米人に、動かされていたんではないかと言われています。実際のところキリシタンみたいな、維新志士もいたんですよね。
明治維新後には、日本の社会全体が一気に西洋文明化してしまったたので、頷ける話ではありますね。
国会議事堂はピラミッド型だし。フリーメイソン的なものが日本の頂点にあるということは、誰でも想像がつくことですし。
だからこそ、明治時代以降の元号にキリスト教的なものを含めているのは、必然的なのではないかと。救世主がどうこうという話も含めて。
全ては単なる偶然かもしれない。妄想を広げる参考にしてください。
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かごめ歌
籠目籠目
籠の中の鳥は
何時何時出やる
夜明けの晩に
鶴と亀がすべった
後ろの正面だあれ
これ、なにかやたら気になりますね。
一説には秘密組織が残した暗号であるとか。
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さまざまな解釈がありますが。これって、俺の野生の勘でいうと、たぶん、数字に関係していますよね。
そこで適当に数字で解釈してみました。
江戸時代以前の歌なので、当然「十二時辰」が使われていますよね。
表し方としては、十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥は一般的で、「名」と呼ばれるもの(夜半、日中、黄昏など)があり、他にも漢数字の四~九で表す時刻があったとか。いろいろあったようですね。
【写真あり】江戸時代の斬新すぎる時計10個を紹介。時間の数え方も独特だった | 江戸ガイド
このサイトの十二時辰の表し方が気に入ったので、参考に作ってみました。ほぼパクリであると、予め公表しつつ。
こんな感じでした。
かごめ歌の遊びでは、大勢の子供が中央の子=鳥を囲って、「囲め囲め」といっている風でもあるので。十二時辰の円盤は、その様子を表しているふうにも見えます。だからこうやって解くのが正しいのかもですよ。
ではかごめ歌を数字で解いてみます。
・籠目籠目
籠目というのはこういうやつです。
これ、六芒星が一杯ありますが、つまり籠目とは6。
・籠の中の鳥は
六芒星の中に鳥がいるらしいです
・何時何時出やる
五つ五つなのかもしれない。まあこれは微妙。
・夜明けの晩に
先程の十二時辰を見ると、夜明けというのは東の方角の明け六ツのあたりを言います。
十二時辰では、「明け」が付くのは「明け六つ」だけですね。だから夜明けが明け六つであることがわかります。
「明け六つが晩」というのは、明け六つが暗い時期。つまり季節は「秋か冬」ですね。
・鶴と亀がすべった
鶴と亀というのも数字になりますね。鶴亀算というのがあり。
中国で五世紀に誕生したらしく、これは元々は雉と兎だったのが、日本では江戸時代から鶴と亀になったとか。
鶴は足2本、亀は足4本として計算するわけなんです。
「すべった」を「統べった」で「統一」という意味だとすると、鶴2本+亀4本を統一して、6ですね。
それから、雉と兎は、十二時辰に当てはめると、
雉=酉=暮れ六ツ
兎=卯=明け六ツ
となるというのもポイントでしょうね。
現代の時間に当てはめると、朝6時、夜6時(18時)ですね。
なんで全部6なのか?という素朴な疑問が。
これを十二時辰の盤に当てはめてみる。
こんな感じになったんですが。
6が、東西(卯酉)の方角に並ぶという。これがかごめ歌の真髄ですかね。
そういえば江戸時代の知識人は、キリスト教と共に、西洋の二四時間の時計も目にしていたのですよね。
・後ろの正面だあれ?
十二時辰の円盤では、東西南北どこをとっても正面ということになるので、単純に夜明けの晩=明け六ツの後ろ側をみればいいということに。
・夜明けの晩(明け6ツの後半)に、鶴と亀が統べって6。
・後ろの正面は、明け6ツの反対側ということだから、「暮れ6ツで、酉=6」が答えということに。
しかも「夜明けの晩」=「明け六つが暗い季節」ならば秋か冬なので、
「複数の6が並ぶ鳥が、籠の中から出るのが酉年の秋か冬」っていう感じですかね。
そういえば、今年って酉年らしいですね。
籠目紋=六芒星って、そもそもあの形はアレですし。まあ、思い浮かぶのはアレですけど。想像に任せるっていうことで。
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